三重県の中山間地域の農地に出現した立派なトイレ
三重県名張市北部の山間地域にある「アグリー農園」。もとは棚田だった地域に5つの大きなビニールハウスが並び、ミズナやコマツナなどを水耕栽培で栽培しています。ここで働くのは約15名の障害のある方と5名のスタッフ。彼らが毎日使うのは、このトイレです!
車いすでも楽に入れる広いトイレが2つ、男性用の小便器が2つ。床はコンクリート敷きの掃除がしやすい仕様で、もちろん水洗トイレです。
しかし実はこの地域、上水道も下水道もありません。ではこのトイレは?
「これは簡易水洗のトイレなんです」と答えてくれたのは、アグリー農園を運営する株式会社アグリー取締役の井上早織(いのうえ・さおり)さんです。
簡易水洗は少量の水で便を流しますが、下水道には連結せず、便槽にためた排泄物は汲み取りトイレと同様に定期的にバキュームカーでの汲み取りが必要なトイレです。

トイレの裏手にあるタンクに、毎日500リットルの水道水を運びいれる
トイレに流す水は、毎日井上さんの自宅から500リットルの水道水をタンクに入れ、軽トラックに載せて運んでいるそう。これには収穫した野菜を洗う水も含まれるとのことですが、それにしても毎日運ぶとなれば大変です。
「そういう苦労をしても、清潔なトイレは何より大切です」と力説する井上さん。その理由とは?
■井上早織さんプロフィール
2011年に大阪から三重県名張市に夫婦で移住、農業未経験で就農。株式会社アグリーを設立し、現在は名張市以外にも多くのグループ農園を持つ農業法人に成長。
2013年にはNPO法人あぐりの杜を設立し、農福連携による障害者の就労支援事業を開始。現在はあぐりの杜のゼネラルマネージャーとして運営に携わる。一方で、農福連携をより推進したいと「のうふくラボ」を立ち上げ、所長として各地で講演活動なども行っている。
・受賞歴
WIT2016(女性活躍推進サミット)STAR SHOWみえモデル賞受賞 ほか
アグリー農園のトイレのあゆみ
以前大阪に住んでいた井上さん夫妻は、就農を目指し農地を探していましたが、なかなか借りることができず、やっと見つけたのが三重県名張市のこの場所。2011年9月、長さ50メートル幅5メートルの水耕栽培ハウス3棟を建設し、アグリー農園での営農を始めました。
当初のトイレは譲り受けた汲み取り式の仮設トイレ1つだけ。その後雇用を始めたのをきっかけに、仮設トイレを2つに増やして男女別に。そして大きな転機となったのは、農福連携を始めたことでした。
農作業が障害者の就労訓練に向いていると思っていた井上さんは2013年にNPO法人あぐりの杜を設立し、就労継続支援B型事業所「あぐり工房」を開所。あぐり工房で農業部門を立ち上げ、そこに通う人々がアグリー農園で就労訓練を行うことになりました。しかし、真っ先に課題となったのがトイレの問題だったのです。
農福連携で浮き彫りになったトイレ課題
農福連携を始める頃にはハウスが5つになり、農園で働く人も増えていました。
「そのころ、トイレを3つに増やしました。障害のある方の中には排せつを我慢することが難しい方もいますし、薬などの影響で頻繁にトイレに行く必要がある人もいます」と、井上さんはこれまで以上にトイレの大切さを感じたと言います。

快適なトイレができる前のトイレ設置の様子
また、仮設トイレの構造が障害のある人に合っていないことも問題でした。
「利用者の中には体にまひがあったりして、下着をおろすときに広いスペースが必要な人もいます。それに、漏らしてしまった場合には着替えもトイレ内でしなければいけないんです」
また、清潔さを保つことが難しかったのも問題でした。「中古の古い仮設トイレだったので、冬になると水が凍ってしまって流せなかったり、水を流すためのペダルが壊れてしまったりと問題がでてきました。また、定期的に掃除をしても臭いますし、虫も湧いてきます。トイレが汚いと、障害者の方だけでなく女性従業員もトイレに行きたがらなくなってしまって……」と、トイレに行かないために水を飲もうとしない従業員もいたそうで、井上さんは利用者や従業員の健康にも不安を感じるようになりました。
さらに、障害のある人にとってトイレが「排せつをする場所」以上の意味を持っていることにも気づきました。「トイレって人が完全に一人になれる唯一の場所だと思うんです。多くの人が一度くらいはトイレで泣いたことがあるんじゃないでしょうか。彼らにとってはなおさら、気持ちを切り替えたりするのに大切な場所なんです」と、空間としてのトイレの重要性にも気づいた井上さんは、居心地の良いトイレ建設に動き出しました。

快適なトイレができる前の仮設トイレの様子
トイレが作れない土地
水洗トイレ建設のため井上さんは水道を引こうとしましたが、農地のある地区は市の上水計画の区域外で、自前で水道を引くことすらできない場所であることがわかり断念。また井戸を掘る業者にも相談しましたが、敷地の下に岩盤があって井戸を掘ることができずこれも断念。さらに、水をほとんど使わず下水に水を流す必要のない「完全循環型」と呼ばれるタイプの浄化槽も検討しましたが、予算オーバーであきらめざるを得ませんでした。
「循環型の浄化槽よりも、トイレの広さと数を優先しました。使う人が快適であることが最優先ですから」
こうして、見た目は普通の水洗トイレと変わらず、広くて清潔なトイレを実現するためのプロジェクトが始まりました。

井上さんをはじめ、多くの人の意見と思いが込められたトイレの計画図
クラウドファンディングでトイレ建設の意味
トイレの建設のために、まず銀行に融資の相談もした井上さん。しかしここにも壁がありました。「トイレを作ることでどれだけ収益が上がるのか数字で示してくれ、と言われました。確かにきれいなトイレで従業員のモチベーションが上がることは確かだと思っていたのですが、収益が何万円上がるかという説明はできませんでした」
融資は断念せざるを得ず、クラウドファンディングを活用しての資金集めを始めることに。これには資金集めだけでなく、もうひとつの理由がありました。
「表立って語られづらいトイレの問題が農業の現場や障害のある人にとってトイレがどれだけ大切か、クラウドファンディングを通して皆さんに広く知ってもらいたいと思ったんです」
こうして2017年11月にクラウドファンディングが始まりました。地元の新聞社がこのプロジェクトを記事にしたことで各方面から支援が寄せられ、開始わずか21日目で目標の200万円を突破。支援者の中には障害者の家族も多く「よくぞトイレの問題を取り上げてくれた!」と共感する意見も多かったそうです。
結果的に262万5000円の支援が集まり、トイレの建設が始まりました。
働きやすい環境を作ることが経営者の責務
井上さんの自己資金等も加えた約350万円で建設が進み、2018年5月にトイレが完成。毎日水を運ぶ苦労と毎月2万円ほどの汲み取り代を差し引いても、その効果は絶大だと井上さんは言います。
「みんなが『トイレをきれいにしてくれてありがとう』と心から言ってくれました。普段からみんなに感謝の言葉を伝え、女性が働きやすいように週休2日、残業なしを実現して、労働環境は整えてきたつもりです。働きやすい環境を作ることは経営者の責務ですから。さらに今回のトイレの建設で、みんなに対する会社の思いが伝わり、会社に対するみんなの信頼の気持ちも高まったのでは」
株式会社アグリーは設立以来、毎年前年比120%以上の成長をしてきたそうですが、トイレを建設した2018年以降これまで以上に人材が定着するようになり、求人への応募者も増え雇用が安定したと言います。

トイレの床に手形を押すアグリー農園の皆さん
トイレ環境が人も農業も変える

トイレの完成を祝うあぐり工房の皆さん
アグリー農園で就業訓練を行うあぐり工房の利用者にも、トイレができてから変化がありました。ずっと家に引きこもり全く社会とつながっていなかった女性が、アグリー農園で少しずつ訓練を積み自信をつけ「皆勤賞」を取るまでになり、一般就労に至ったケースもあったそうです。
「環境が悪いと『農園に行くのが嫌だな』と思ったかもしれません。でも環境が良いと毎日来て働くようになる人もいるんです。そしてどんどん明るくなって、本来その人が持っている才能を発揮し始めることもあります。環境が人を変えるんだなと実感しました」
この女性のように、アグリー農園での就業訓練を終えて他社で一般就労を果たした人はほかにもおり、井上さんはトイレを整備することの効果を実感。各地で行う講演活動でも農業分野、特に農福連携分野でのトイレ整備の必要性を訴え、今では農園のトイレを視察したいという申し入れも多いそうです。
「以前はトイレを作るのになかなか補助金などもありませんでしたが、今は農福連携を行っている農園が補助金を利用してトイレを設置することもあるようです。この動きが広まってくれれば。本当にトイレで人って変わるんです。トイレって本当に“深い”んですよ」
これからもスタッフや利用者の皆さんの働く環境を一番に考え、利益と感謝をみんなに還元していきたいという井上さん。現在は農福連携に地域資源活用をプラスした「あぐりの杜プロジェクト」も進行中で、「古民家再生と耕作放棄地の開拓を通して、多くの人とつながるコミュニティを創造することがライフワーク」とのこと。
「もちろん、そのプロジェクトでも素敵なトイレづくりは欠かせません!」と、井上さんは次の快適なトイレ実現のために今も奮闘中です。
画像提供:NPO法人あぐりの杜