53ヘクタールの米すべてが直接販売
庄内地域でも有数の稲作農家である井上農場の農地は、田んぼ53ヘクタール。他にビニールハウスが16棟あり、夏はトマト、冬は小松菜を栽培している(2023年1月現在)。
年収は約1億2000万円。収穫した米は、JAを通さずにほぼ全量を直接取引している。販売先は、ネット販売を中心に、個人、飲食店、学校給食、卸業者などで、その割合もほどよく分散してバランスが取れている。
スタッフは役員を含めて12人。2022年6月には株式会社として法人化した。
主力品目である米は、つや姫、雪若丸、はえぬき、コシヒカリ、ひとめぼれを栽培しており、それらすべてが農薬低減率5割以上(慣行栽培比)の特別栽培米だ。安心安全を徹底するために選別機には2回通し、精米は五つ星マイスターのいる精米所に依頼するほど、品質にこだわりを見せる。
酒米も4品種栽培し、同じ庄内地域の蔵元が、井上農場の米だけを原料に醸造した日本酒を数種販売している。
そんな井上農場で、経理担当として経営面での要を担っているのが井上夏さんである。経理のほか、SNSでの情報発信、取材対応なども担当し、井上農場の「広告塔」として地域内外からよく知られる存在となっている。
21歳で大農家に「嫁入り」
夏さんは、鶴岡市の隣市・酒田市の出身。実家は寿司屋であり、農業とはまったく無縁に育った。高校卒業後は地元のパン屋などで働き、友人の紹介で現在の夫・貴利(たかとし)さんと知り合い、21歳で結婚した。
「好きになった相手がたまたま農家だったというだけで、農家に入るとも、農業をやろうとも思っていませんでした。ただ、農業をいやだとも思ったことはないです。むしろ私のまわりのほうが心配していましたね。当時から井上農場は規模の大きな農家でしたから」と夏さんは振り返る。
結婚前から貴利さんの実家である井上農場に遊びに行き、そこで貴利さんの両親が楽しそうに農作業をしているのを見ていた。そんな井上家の姿が、若い夏さんに良い印象を与えた。
「農家に入ることに何も心配はなかったですね。若かったし、あまり深く考えませんでした」と夏さんは笑う。
結婚からまもなくして第一子が誕生した。「子どもは、3歳までは母親のもとで育てなさい」という義母の言葉に支えられ、井上家に嫁入りした後もしばらくは子育てに専念することができた。第一子が保育園に入園するころには第二子が、さらに4年後には3人目が生まれた。
「うちは子どもが3人いるんですけど、4年ずつ違いだから、しばらくは働かないで子育てしてました(笑)」。
とはいうものの、第二子が2歳になったころから、経理の仕事を少しずつ手伝うようになった。出身の商業高校で経理を学んだ経験があり、パソコンも使えたことから、家族に頼まれて作業するようになった。井上農場の事務所は自宅敷地内にあるため、子育てとの両立も難しくはなかった。
「農作業は今でもまったくしていません(笑)。やりたくないわけではないんですけど、子育てと経理をしているうちに、だんだんとスタッフさんが増えてきたので、経理のほうを私がしっかりやることになりました」。
代表取締役で義父でもある井上馨(いのうえ・かおる)さんは、もともと3ヘクタールほどだった井上家の農地を次々に広げ、現在の53ヘクタール規模の経営体へと育てあげた。当時28歳だった夏さんが経理を任された背景には、それまで家族経営だった井上農場を組織化するタイミングだったこともあるようだ。
商品開発からデザインまで行う「ポン菓子部長」
こうして井上農場の経理として家業を手伝い始めた夏さん。転機となったのは、義母から任されたポン菓子の商品開発だった。
「うちの米って、ポン菓子にするとおいしいのよ」と、義母から「いい意味で投げられた」形の夏さんだが、菓子製造会社などと関わっていくうちに、外に出てやりとりすることが楽しくなっていった。
「ポン菓子部長」を名乗る夏さんの商品開発は、まずプレーンの「つやポン」から始まり、チョコでコーティングした「つやポンDEチョコポン」、玄米を使った「黒蜜きなこのグラノーラ」などに展開していく。また、夏さん自身が子育ての時に悩んでいた経験から、子どものおやつとして「さいしょのおこめ」も商品化させた。米こうじを使ったノンアルコールの甘酒「つや姫糀王子のあま酒」の商品開発も行った(委託していた蔵元が廃業したため、現在は製造を休止中)。
つやポンもつや姫糀王子も、パッケージの形、ロゴ、ラベルデザインなどを夏さん自身で手がけている。
「私、デザインセンスがあるんですよ」と、冗談めかして笑う夏さん。商品開発の過程をほぼすべて自身で行ってきただけに、それぞれの商品への愛着もひとしおだ。
「先日、初めて『この子』(つやポン)が沖縄のスーパーに進出したんです。『王子』(つや姫糀王子)は、独り立ちしてどこへでも行ける『子』だったんですけどね。『この子』はなかなか手に取ってもらえなくて、こないだようやく沖縄に行くことができました」と、わが子の成長を喜ぶかのように語る。
お米の「広告塔」としてハワイ進出めざす
夏さんは井上農場の広告塔として広報も担当している。facebookでの情報発信を始めると、井上農場の名前が地域内外に浸透するようになった。加えて、近年はインスタグラムやTikTokでの投稿もしている。
「(こうした広報活動も)好きなんでしょうね。どういう投稿がいいかなってよく考えるんです。でも、最近は経営規模の拡大などで忙しくて、あまり情報発信ができていません。好きなことばかりやっていると、経理が疎かになって怒られちゃうんで」と笑った。
2018年には農業女子プロジェクトに参加した。日本の米を売るために、農業女子のメンバーが海外へ出向いているという話を聞いてのことだった。
翌2019年には「やまがた農業女子ネットワーク(愛称:agood)」の立ち上げに際して声をかけられ、現在もコアメンバーとして活動を続けている。
鶴岡市から地域活動への協力要請も来るようになった。藤の花で知られる藤島歴史公園に人を呼び込むための活動「Hisu花」ワークショップに参加し、2年目からは活動のリーダーとして、イルミネーションイベントの企画や看板制作などで携わっている。
「農業は地域との関わりが大事じゃないですか。社長は社長のやることがある。私も私のやることとして、いろいろな取り組みに参加しています。地元のために、自分にできることはやろうと思います」(夏さん)。
そんな夏さんの「野望」は、井上農場のハワイ進出だ。キャラメルポップコーンなどのお菓子が売れる現地で、フレーバーのポン菓子を販売し、ゆくゆくは井上農場として出店してお米を売りたいのだという。
自らが開発したポン菓子と井上農場のお米に、強い愛情とプライドを抱く夏さん。今後もお米の「広告塔」としての活躍に期待したい。