中山間地域 農業の複合経営魅力物語 関 元弘さん
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福島県(東北)
ななくさ農園
関 元弘さん
栽培作物 麦、13品目の有機野菜 |
耕作面積 1ha、ビニールハウス4棟 |
経営規模 本人 |
移住形態 Iターン |
前職 公務員 |
農地の取得 借地 |
就農までの期間 3年 |
移住した年 2006年 |
農業
×発泡酒製造業
- 多品目
- 発泡酒
2006年に二本松市(旧東和町)で有機農業を開始した関さん。前職は農林水産省の技官として、日本の食の安全と向き合っていました。自分でやってみたいと一念発起し、縁があった東和町で地産地消の野菜作りと発泡酒製造を行っています。
農水省の技官から転身。
自然と地域と共生する有機農業の世界へ
人懐っこい笑顔でポーズをとっていただきました!
農業を考えたのはいつごろですか?
子どもの頃から食は大事だと思っていたみたいです。アフリカの飢餓の問題がニュースで流れている時代だったからでしょうか。人は食べられないと死んでしまうんだという、衝撃がありました。それで、食に関わる仕事をしたいと思い、農学部に進んで農水省の役人になりました。
ご自宅前に田畑が広がり、その奥には里山が。
田舎暮らしにあこがれもあった
都会人の私が味わえないような暮らしがある
東京出身で、実家は非農家だし、何をどうやったらなれるのかもわかってなかった。その後、農水省の「人事交流」に参加しました。若手が地方の市町村の農政職員と人事を交換するという制度です。田舎暮らしにあこがれもあったし、希望を出していたのが叶ったカタチですね。その赴任先が、福島県の旧東和町(現二本松市)でした。農政課に2年間在籍し、林業や土壌改良もするといった仕事は楽しかったですね。暮らしている間はなるべく出歩いて、飲み会は断らずに参加して、お祭りにも出させてもらって。都会人の私が味わえないような暮らしがありましたね。
期間が終わって農水に戻った頃に、無登録農薬問題や、病気の牛の肉骨粉が混ざった肥料が出回る問題などが起こり、それらをきっかけに行政として食の安全性を高めていこうということになって、どの省庁からも独立した食品安全委員会の設立準備室に関わることになりました。そこで、激しく糾弾する人たちの声を聞いて、たくさん歯がゆい思いをしました。自分で作ってもいないのにって。そこで自分でやってやろうと気持ちを決めたように思います。
縁を大事にしたかった
当時の時代背景もあると思うんですが、私は環境世代とも言えるんですね。環境を意識せざるを得ないというか。「有機農業」という言葉の意味もよくわからないままに、最初から有機農家になろうと考えていました。それに当初、東和町は候補になかったんです。出戻りみたいで恥ずかしかったから。四国や埼玉県の農家をあちこち訪ねました。準備期間は3年でしたね。人に紹介してもらったり、本やネットで調べたりして、十数件の有機農家に会いに行きました。ただね、やっぱり縁がないんですよね。どんなに有機農業が盛んであろうが、優遇制度があろうが、地縁も血縁もないところに行くわけだから、縁を大事にしたかった。そうして考えたときに初めて東和町が浮かび、昔の役場仲間に電話したんです。「農地はあるんだから、来れば?」って。それでこっちも「じゃあ行ってみますわ」って。実にあっさりしたものでした(笑)。実際に東和町に越してきたのが、2006年の春でした。
他にも「現代農業」は必読。有吉佐和子著「複合汚染」も。
新規就農のためのルールでは、5反(50アール)なければということ
農地はどのように取得しましたか?
人事交流のときからお世話になっていた師匠がいるんです。その方が地元の顔なので、いろいろと紹介してもらって。作付できる農地はそのまま貸してもらったし、この辺は一面桑畑だったんです。当時は20年近く放置されて、荒れていた。ここも貸してもらって、師匠と開墾しました。新規就農のためのルールでは、5反(50アール)なければということだったので、それで条件はクリアできましたね。本格的に就農したのが秋だったので、米が終わっていた。3反(30アール)くらいからスタートして、最初は麦を植えました。
農業で生計を立てるまでの収入と販路獲得
畑の土壌改良を目的に麦を始めたんですが、冬は酒蔵で日本酒を仕込む仕事をしていたので、ルーティーンになりましたね。春はほうれん草や小松菜、スナップエンドウを、夏はきゅうりやトマト、秋はインゲンや大根を作って、麦を蒔いてから、冬は酒蔵に入るっていう。妻はハウスでトマトを栽培しています。完全に“縦割り行政”なので、お互いに口出しはしない。妻は地元の子どもたちに向けて、小さな英語教室も開いています。こういった仕組みで収入を確保していました。
販路については、有機農産物を売りにしようとルートを作りました。千葉県の有機専門の卸さんと出会い、首都圏の専門店で扱ってもらえることに。しかも物流を農協が請け負ってくれたので、農協に出荷すれば、東京の大田市場まで運んでもらえた。農協の物流を利用しているので、部会も作らなくてよかったんです。だけど、震災があって放射能の問題が出てしまった。有機農産物を出荷する組織を地元で作って売り出そうとしていた年だったんですよ。それでも動き出そうと、震災の年から出荷を始めました。卸さんも応援してくれて、初年度の売上は500万で、その次が700万。もっと頑張ろうって言っていたら、その翌年には50万にがっくり落ちて。「応援」って、ずっとは続かないですもんね。
ただ、また別の出会いがあるんです。有機農産物の流通って、物が少ないから複雑な流通経路を通ってるんです。基本首都圏なんですけど、それが一部福島に戻ってくるんですね。仲間から「地元のスーパーで関さんのインゲンを見つけた」って連絡が来て。見に行ったら、前に出したものがいい値段で売ってたんです。それで、地元で売ればいいんだと気づきました。そこでスーパーの専務さんと流通をやってくれる業者さんと知り合いまして、今では、地元のスーパーに買い取りという条件で「有機直売品」として出しています。
鳥獣対策に狩猟免許を取得
原発事故以降、原木椎茸を栽培している人たちも山に入れなくなってしまった。放射能汚染の関係で、里山としての機能を失ってしまったんです。里山に人が入らなくなると、イノシシが出てくるようになる。昔は、あっちの山で鳥獣被害なんて言っていたのに、今ではその辺の道路でも見かけるようになった。困ったことになったなと。積極的に捕るしかないと、狩猟免許を取りました。罠もやるし、猟銃も扱います。最初は妻が怒りましたね。そんな物騒なものを家に置かないで!って。でも原発事故以降、被害が増えてきてしょうがないということになりました。一度捕れば、来なくなるんです。この辺りでは見ないようになりましたね。
発泡酒製造
冬は酒蔵で働いていたんですが、蔵人というのは季節工だから休みがないんです。月に2日くらいしか休めない。確かに冬は農作業はないけれど、山の管理とかお金にはならないけれどやっておかなくてはならないことが結構あるんです。酒造りをしていると、意外と自分の仕事ができないんですね。だけど、出来立てのお酒を樽から飲む醍醐味は捨てたくない(笑)。どうしたらいいかなって考えたときに、自分で免許を取ればいいんじゃないかと思いついたわけです。
調べてみると、発泡酒が取りやすいということで、事前に準備して、これも2011年に発泡酒製造免許を取得しました。
発泡酒の原料は麦。開墾の時以来、土作りのために始めた麦も一部使っています。年間で5000リッターちょっと。ボトルが1万本くらいでしょうか。6000リッターを造ると永久免許がもらえるんですが、一人でやっているので無理はしない。更新手続きは面倒だけど、毎回行っています。
中山間地の農業の強み、最後の砦は無限の資源である「ヤマ」を持っていること
生活の基盤は発泡酒製造が大きいとか
技術取得はどうやって?
結局は自分でやらなきゃわかんないですよね。私は技術なんてないと思ってます。「有機農業というのは技術うんぬんではなく、畑を使いこなしていくこと」だと教わったことがあります。自然のサイクルの中で作物を作っているわけですから、植えたものが駄目になったら、次に行く。「駄目な時は駄目」が畑の答えなんです。とにかく自分がその循環の一部になる気持ちで働きかけ続けていけば、いつかは答えてくれるんじゃないかと思っていますね。
一方で、中山間地の農業は環境保全の観点だけではない、この場所だからこその農業があることも実感しました。東和町は、羽山という900メートルの山の麓にあります。ここには、単一でないさまざまな風土・気候があるわけです。元々ここらの農家さんはみんな複合経営でやってたんです。それぞれの地形を活かした農業をしている。ここに可能性があると思うんです。
中山間地域は条件がいいわけではないから、助け合っていける。これは今も変わりません。師匠がよく言っていたのは、「山も使って初めて楽しくなるんだよ」と。このお話を聞いて、この土地のプロになろう、そう思いましたね。
地新規就農を目指したい人へのメッセージ
必ず言うのが……サラリーマンでもいいじゃない、と。可処分所得のなかで好きな生活もできるしね。だけど、それでもやりたければ、楽しいことはいっぱいあるよって。ここまでをセットで伝えています(笑)。無限の資源がある。無限の可能性がある。だけどそれを無限と感じるかは本人の自由とも思います。まあ、この暮らしが気になるようでしたら見に来てもらってもかまいませんよ。その辺で雑魚寝でもよければ、だけど(笑)。