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苦労の連続 巨峰がぶどうの王様になる道のり

苦労の連続 巨峰がぶどうの王様になる道のり

ぶどうと聞いてどんな物をイメージされるでしょうか。小粒の物ならデラウェア、緑のぶどうであればマスカット、そして大粒の紫のぶどうと言えば何と言っても「巨峰」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。現在では大粒のぶどうの代名詞とも言えるほど多く作られている巨峰ですが、意外にも栽培が広まるまでは長い苦難の道程があったのです。世界と日本でのぶどうの扱いの違いと巨峰が辿った苦労を合わせて紹介します。

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かつて、日本ではあまり盛んでなかったぶどう栽培

初夏を迎える辺りから旬を迎えた国産のぶどうが店頭に出始めます。小粒、大粒、紫、緑、赤と粒の大きさや果皮の色などが違うぶどうが並んでいるのが当たり前の現在からは想像できないかもしれませんが、かつて日本で栽培されていたぶどうはほんの数種類だったとされています。ぶどう栽培の歴史自体は古く、元々日本に自生していたヤマブドウとは別に中国を経由して、シルクロードから渡って来た物が日本に定着し、鎌倉時代頃には山梨県で栽培されていました。これは現在の甲州ぶどうのルーツとなります。今ほど多く食べられている果実ではありませんでした。

海外では「命の水」だったぶどう

日本で本格的にぶどうが栽培されるようになるのは明治頃からです。それに比べ、コーカサス地方やカスピ海沿岸では紀元前3000年頃には栽培が始まっていたとされています。その時代のぶどうは果物として好まれたから栽培されるようになったのではなく、もっと切実な理由からでした。ぶどうの原産地は乾燥しており、灌漑技術がまだ十分に発展していなかった事から農耕で穀物を育てるのではなく家畜を育てて肉を食べ、その乳を貴重な水分源としていました。そんな状況の中で乾燥した土地に適合し、果汁から水分が取れるぶどうが重宝されたのは当然の流れと言えます。

ぶどうの果汁その物は甘く、そのままではたくさん飲めません。ぶどうは果皮についた酵母の働きで、すぐに発酵してワインとなります。そしてアルコールとなる事で長く保存する事も可能となります。飲用に適した水が少ない地域では、ぶどうは「命の水」をもたらす果実だったのです。

ぶどうの生食を好む日本。けれど海外ではぶどう=ワイン

また、各地域で作られる酒の原料として、日本では主食でもある米を用いています。ぶどうと言えば日本では「果物」ですが世界の多くの地域では、ぶどうは重要な飲料であるワインの原料として栽培されています。比率としては世界で生産されるぶどうの約7割がワインに使われています。

時代の流れのために長く不遇だった「巨峰」

今では日本のぶどうを代表するとも言えるほど栽培されている巨峰ですが、世に認められるまでは不遇の積み重ねが長く続きました。

巨峰の生みの親は民間育種家である大井上康(おおいのうえやすし)さんです。大井上さんは元々茨城県の神谷酒造所の牛久葡萄園の技師として働いていましたが大正8年に東京で「大井上理農学研究所」を設立した後、伊豆に研究所に移します。この研究所は公的援助等を受けられなかったため農産物の販売やメッキ加工で研究費や生活費を賄う事になりました。

戦中戦後の食糧難。栽培の難しい「巨峰」

巨峰の交配実生が生まれたのは1973年です。そのため巨峰が実を結び始めた時期は第二次大戦の戦中戦後と重なってしまいました。また、巨峰は栽培方法が難しく、上手に育てれば極上の果実が得られるが栽培方法を誤るとひどく劣る品質の物しか収穫できない状態でした。戦時中は兵站のため。戦後は食糧難のため。日本国内では主食の米を栽培する事に重点がおかれ、食糧事情の改善に寄与できない嗜好品である果物に目が向けられる事はなく、巨峰が世に認められる日を見ないまま、作出者である大井上さんは1952年9月に亡くなってしまいます。

日本に適した、美味しい「巨峰」のルーツ

元々日本は、乾燥しているぶどうの原産地と異なり高温多雨多湿です。奈良時代に日本に渡り、運良く定着した甲州ぶどうを除くと、ヨーロッパから入ってくる系統のぶどうと日本の風土は相性が悪く中々上手く育ちませんでした。その代わり、アメリカ種のコンコードやアメリカ種を元にヨーロッパ種と交配されたデラウェア、キャンベル・アーリーなどはうまく日本の土地に馴染みました。明治以後に増えた日本のぶどう栽培の主力品種はデラウェアとキャンベル・アーリーでしたが、大井上さんの狙いとしては日本の風土にあった「4倍体」のぶどうを作出する事にありました。

生食を好む日本に向けて作られた「巨峰」

「4倍体」とは染色体の数による分類です。通常のぶどうは「2倍体」で、染色体の数が生殖細胞の19個に対して体細胞の染色体の数は2倍の38個です。これに対し「4倍体」のぶどうの体細胞は生殖細胞の4倍、76個となっています。4倍体は2倍体に比べて細胞のサイズが大きくなるため、それに従って果実が大きくなります。生食を好む日本人に合わせた大粒のぶどうを作出するため、大井上氏は母をヨーロッパ種とアメリカ種の交配種である4倍体種「石原早生」、父をヨーロッパ系の4倍体種「センテニアル」にして「石原センテニアル」を作り出しました。実はこれが「巨峰」の正確な品種名となります。「巨峰」という名は大井上さんが巨峰の作出を行っていた伊豆の大井上理農学研究所から見える富士山にちなんで販売時の商品名として名付けられた名前なのです。

続く冷遇と、広まって行く「巨峰」の実力

栽培が難しい巨峰は、それによって更に冷遇の時代が続きました。大井上さんがなくなった後、息子の静一さんが大井上理農学研究所の代表となり巨峰の栽培方法の研究が続けられましたが4倍体のぶどうは2倍体の物より細胞が大きいため、果実が大きくなる代わり、葉も大きくなり樹勢が強くなるデメリットがあります。このデメリットは「花ぶるい」と言って着花や稔実の不安定に繋がります。康さんの後継者らは、巨峰を作出した権利を守るため農林省にも種苗登録の申請を行ったのですが1957年に育種登録を拒絶されてしまいます。その理由の1つが「花ぶるい」による結実の不安定さでした。果実の品質の良さは認められたのですが「実がつきにくく、結実した後も実が落ちやすいので店頭に並ぶまでの輸送間に商品にならなくなる」という商品作物としての欠点を指摘されたのです。

福岡から始まった巨峰の快進撃

不遇が続いた巨峰が世に認められるきっかけは福岡県田主丸町(現久留米市田主丸町)で生まれました。この町では戦後すぐに酪農が導入されましたが牧草不足から方針を転換する事になり、指導者として越智通重さんを招聘しました。越知さんは大井上さんの弟子でした。越知さんは本来の目的であった稲作指導を行ううち、田主丸町の土壌が巨峰の栽培に適している事に気付きます。その後、越知さんの指導の下で巨峰の栽培が始まりました。そして田主丸町農家の人々の努力で巨峰は見事、この土地で実を結びます。

発想の転換。日本初の観光農園

実った巨峰のおいしさは認められましたが、やはり実が取れやすい欠点などから市場では思うように売り上げが伸びない状態が続きました。そこで「運べないなら巨峰の所に来て貰おう」という発想の転換から、ぶどう畑で消費者が直接収穫する「観光農園」が誕生します。今までなかったスタイルの観光スポットに、少しずつ豊かになっていた時代の人達が飛びつき、巨峰のぶどう狩りは一大ブームを巻き起こしました。これをきっかけに、巨峰は全国に広がって行きます。

日本のぶどうの転換点だった巨峰

現在、果樹栽培の技術は巨峰が作り出された頃よりずっと進み、「ジベレリン処理」により「花ぶるい」の抑制や、種無し化させる技術が確立されています。これにより巨峰の栽培デメリットは解消され、巨峰を元にした4倍体のぶどうが新たに多く作り出されました。巨峰から作り出された代表的な4倍体のぶどうはカノンホール・マスカットとの交配によるピオーネです。他にも巨峰の実生から生まれた白峰や安芸クイーンの他、現在市場に出回っている4倍体のぶどうの系譜の多くに関わりを持っています。巨峰自身がぶどう全体に占める割合も依然高く、全体の35%ほどが巨峰です。

戦争の最中に作り出され、長く冷遇された巨峰は今や、日本のぶどうの代表品種です。露地で作られた巨峰の旬は8月下旬から9月下旬頃。今年の巨峰を見かけたら、黒い真珠のような実が世に認められるまで努力を重ねた人達がいた事を思い出してみて下さい。

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