肉牛が開いた牧草地
北海道黒松内町は「北限のブナ林」で知られる人口2500人の町です。ティム・ジョーンズさんと森塚千絵さん夫妻がここに肉牛牧場を開いたのは2020年のこと。11月中旬、初雪の頃に訪れてみると、放牧地には牧草とササ、ヨモギ、背の高いオオハンゴンソウが入り混じり、縁に近い所にはヨシが茂っています。黒や茶色の牛たちが、思い思いにそれらを食べています。千絵さんが「人間が手を貸したのは電気牧柵の周りを刈り払ったくらい」だという、牛たちが再生した牧草地です。
ティムさんが運転するトラクターで牧草地へ出ると、牛たちがゆっくり集まってきます。牛の群れの中に下りた千絵さんは「この子は気が優しくて、あの子は強気で神経質。毎日見ていると、それぞれ好きな草も違うようです」と、一頭ずつ体に触れながら説明してくれました。放牧は通年で行われ、グリーンシーズンの終わりからスプリングフラッシュ(牧草の急激な芽吹き)までの間は乾草やラップサイレージも与えています。冬はビートパルプも補いますが、1年を通して穀物は与えません。そして、草地の状態を見ながらほぼ毎日区画から区画へ牛を移動させ、放牧地全体を使います。
こうした飼養方法は、オクラホマ時代から行っていたものです。そこは数百頭規模の繁殖牧場で、1980年代から除草剤、殺虫剤、化学肥料不使用の草地で輪換放牧(ローテーショナル・グレージング)を取り入れていました。ティムさんが牧場の管理責任者になった2010年には人工的投入をやめ、飼料畑にカバークロップをまいて放牧地に転換するなど、土の健康を軸とする農法へシフトしていきました。

丘の上から麓まで広がる農場。下に牛舎と自宅が見える(牧場提供)
愛着ある牧場を手放して日本へ
2018年、オクラホマの牧場はティムさんと弟妹の分割相続の対象になり、結果的に売却されました。ティムさんはとても落胆しましたが、再び牛を飼う暮らしを求めて千絵さんの母国、日本で新天地を探すことにします。今の土地は一枚の土地が十分に広いこと、朱太(しゅぶと)川という清流の支流が通っていること、そして15年ほど使われていない、つまり無施肥無農薬であることが決め手になりました。2人がアメリカで飼い慣れたアンガス種は、寒さに強くて子育て上手。はじめは入手に苦心したそうですが、今はアンガス種を中心に奥尻島で放牧されていた褐毛和種も導入し、自然交配・自然分娩で繁殖しています。

草が枯れる季節は乾草やサイレージを補う。積雪しても餌は極力屋外で与えている
牛に任せる部分が多いとはいえ、繁殖のタイミングには注意が必要です。厳寒期に子牛が生まれないよう、また授乳期の母牛がたっぷり青草を食べられるよう、雄牛を群れに入れるのは6月下旬~9月下旬の約3カ月間に限ります。「一年ごとに改良してたどりついたのが、このやり方です」と千絵さん。過去の経験に加え、新しい環境と与えられた条件に合わせて今の飼養スタイルを作ってきたのでしょう。

「人間と牛は一緒に環境を癒すことができる。それには経験とデータが欠かせません」(ティムさん)
牧場の環境負荷を可視化
同牧場では、農学、水産学、環境科学などさまざまな研究者を受け入れています(取材日も大学の研究者と学生たちが視察に訪れていました)。その一例がサクラマスの産卵床の研究調査です。それによれば牧場開設以後、場内の小川に産卵床数や産卵数が増えていることから、牛の排泄物による負の影響は見られませんでした。また、別の水質調査の結果でも牛の排泄物の影響は無いということです。
2023年度に北海道が行った事業報告書では、同牧場のCO2吸収量・排出量評価などと並んでゼロカーボンファームへのロードマップが示されています。
牛たちとのライフスタイル
放牧は乳牛では省力化になると言われますが、肉牛では実際どうなのでしょうか。千絵さんは「(この規模の)肉牛の放牧は、仕組みさえできれば1日2時間もあればできますよ」と言います。日々のルーティンはグリーンシーズンは電気牧柵の移動、ホワイトシーズンは1日1回の餌やりで、「早朝に牧場作業をすることはなくて、牛たちが催促に来るのを窓から見て、外に出ても間に合うくらい」(千絵さん)。春の牧柵の杭打ちに1−2日掛かりますが、他に牧場で終日作業することはあまりありません。用事で1泊する時は、餌と放牧地の範囲を2日半分用意しておきます。また、娘さんとお孫さんの滞在に合わせて千絵さんが本州に帰ることもあります。千絵さんは「いろいろ苦心もあったけれど、この土地での仕事と暮らしが噛み合ってきたのかな」と話してくれました。

アメリカ時代の家庭料理、ポットロースト。「グラスフェッドビーフの食べ方も知って頂けたら」と千絵さん
産地でこそ食べてほしい
肉の生産については、24年度は牛群が土地に対して十分な頭数になったため、雄の子牛を30カ月齢で屠畜することができました。屠畜と加工は北海道畜産公社(早来町)に依頼し、主に部位別ブロックを冷蔵で販売。グラスフェッドビーフは健康的な食材として一定の需要がありますが、2人は地域内循環のため全量を直売しています。うれしいことに、少しずつ地元飲食店のメニューにも採用され始めているそうです。
ここで生産される牛肉は、自然の循環の副産物と、持続的供給が可能な食物、2つの面を持っているのでしょう。2022年、北海道大学農学院生による農業アワードを受賞するなど、グラッドニー牧場の試みは教育にも貢献しています。
【記者の眼】
耕畜連携や放牧酪農はリジェネラティブと相性が良いと言われます。リジェネラティブ(環境再生型)農業では不耕起、無農薬、無化学肥料などと共に、堆肥の利用を勧めているからです。環境にも経営にも食べる人にも良い最適解を考える農業に、今後も注目したいと思います。