山間部が多いため豊かな土壌が少なく、潮風を受ける新上五島町。島の畑で昔から作られてきたのが、サツマイモでした。今から約200年前、大村藩外海地区(現在の長崎市北西部)から五島地方に多くのキリシタンが移住し、未開の山間部に集落を開きました。人々は急こう配の土地を開墾して段々畑を造り、サツマイモなどを栽培して、命と信仰をつないできました。

山の斜面を切り開いて造られた段々畑。農業従事者が減り、今では貴重な風景となりつつある。
収穫したサツマイモは、家屋の床下に掘られた「いもがま」に保管され、保存食として重宝されました。サツマイモを薄切りにし、赤土や石で造られた「じろ(かまど)」で湯がいて天日干しにした「ゆでかんころ」は、もち米と一緒にふかしてつき、「かんころ餅」として食されてきました。かんころ餅は、現在では砂糖や水あめ、ごまなどを加えて郷土菓子として親しまれ、島の土産品の定番となっています。秋には、各家庭の庭先に建てられた「やぐら」と呼ばれる干し台にかんころが並べられ、正月に向けてかんころ餅をつく光景があちこちで見られます。
島の人たちにとって最も親しみがあり、愛着のあるサツマイモですが、その生産量は年々減少しています。長崎県五島振興局農業普及振興課によると、2014年に540トンのサツマイモが栽培されていましたが、わずか2年後の2016年には、天候不順なども影響して365トンにまで減少しました。
サツマイモを活用した新たな島の特産品開発と、美しい段々畑の景観を取り戻すため、2008年に新規酒造免許を取得した酒造会社「五島灘酒造」が誕生しました。地元農家が「焼酎原料用いもづくり研究会」を立ち上げ、トラクターを共同購入して新たに約7町歩(7ヘクタール)の休耕地を開墾し、焼酎の原料となるサツマイモ「黄金千貫(こがねせんがん)」を生産。芋焼酎「五島灘」として、島内外で親しまれるようになりました。ほかにも、「紅さつま」や「きんぼけ」といった品種作りにも挑戦し、新たな焼酎を開発してきました。

五島灘酒造の蔵。島内限定で販売されている希少な芋焼酎「五つ星」のロゴが大きく掲げられている。
しかし近年、協力農家の高齢化により、いもづくり研究会の作付面積が縮小してきました。五島灘酒造では、年間100キロリットルの製造量を目指していますが、今年の出荷総量は約33キロリットルになる見込み。1キロリットルあたり1トンのサツマイモが必要ですが、今年収穫できたのは26トン。不足分の7トンは、これまでに貯蔵庫でストックしていたサツマイモを使用して、芋不足を乗り切りました。このままの生産量ではあと3から4年でストックしているサツマイモが底をついてしまいます。五島灘酒造が選択したのは、必要なサツマイモはできる限り自分たちで作るという道でした。

新上五島町の美しい自然の中で育ったサツマイモのみで造られた五島灘酒造の焼酎。
サツマイモ作りを担っている専務の田本佳史(たもとよしふみ)さんは「焼酎造りは農業」と言います。
「現在、自分と社員、杜氏の3人で芋作りをしています。今年は5反(50アール)の畑で芋を栽培していて、夏場は毎日、夕方に2時間くらい草取りをしています。今後はもっと収穫量を増やしたい。来年は作付面積を2倍の1町歩(1ヘクタール)まで広げたいのですが、芋の収穫時期と焼酎造りの時期が重なるので、今の体制では難しい。来年は農業で1人雇用したいと思っています」。

サツマイモ栽培にも情熱を注ぐ田本佳史専務
昔の島の風景写真を見ると、山の斜面には石垣が組まれた美しい段々畑が広がっていたことがわかります。今も山に入ると、雑木こそ生えていますが、山の斜面には当時のままの整然とした石垣が残っています。
「上五島のことを記した昔の記述に、『山を耕し、天に至る』という言葉が出てくるんですよ。山の上の方まで段々畑があったということですよね。その景色を見たいと思っています。工場の裏にも山があるのですが、石垣がきれいな状態で残っています。もちろんトラクターなんて入れません。小さな段々畑を何枚も耕して芋を作っていた昔の人は、本当にすごいなと思います。時間はかかるかもしれませんが、いつか天に至る段々畑を復活させたいです」。時間があれば山に入り、持ち主と交渉をしながら畑にできる土地を探し求めているという田本さん。100キロリットルの焼酎造りを目指して、そして美しい段々畑が広がる風景をよみがえらせるために、大粒の汗を流しながら、工場と畑と山を行き来する日々を送っています。

五島灘酒造が手掛けるサツマイモ畑で、黙々と草を取るスタッフたち。焼酎造りはすでに始まっている。