ヨーロッパ近代史とジャガイモ
ジャガイモの花がマリー・アントワネットのファッションに
18世紀後半。華やかなベルサイユ宮殿のサロンで揺れる、星の形をした紫の花。フランス革命時の王妃マリー・アントワネットはこのジャガイモの花を愛し、いつも髪に飾っていたと言われています。国王である夫のルイ16世もこの花をボタンの穴に刺していました。
当時、大革命直前のフランスでは王侯貴族の間でファッションにジャガイモの花を採り入れるのが大流行したのです。
ジャガイモ啓蒙家パルマンティエ
その裏には深刻な食糧問題とそれに対する政策がありました。
国王夫妻にジャガイモの花を身に着けてほしいと頼んだのは、アントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエという人物。もともと薬剤師だった彼は軍隊に入り戦地へ赴きましたが敵のプロイセン軍に捕まり、3年間の捕虜生活を余儀なくされました。
そこで初めてジャガイモを口にしたのですが、それが彼の運命を、ひいてはフランスの、世界の運命を大きく変えることになったのです。
フリードリヒ大王の命令
ドイツと言えば「ポテトをつまみにビール」のイメージが定着しています。のちにドイツを統一したプロイセン王国では1744年、飢饉に見舞われた際、フリードリヒ大王から農民へ「ジャガイモを栽培せよ」との命令が下りました。そのため、プロイセン王国では早くからジャガイモが食べられていました。
新たなジャガイモ啓蒙家の誕生
捕虜になったパルマンティエに与えられる食事も毎日ほとんどジャガイモばかり。にも関わらず、病気一つかからず、3年後、まったく健康な状態で解放されました。
「いったいあの食べ物は何だったんだろう?」。
これをきっかけに研究にいそしんだパルマンティエは農学者として、また、フランス初の栄養学者として、このジャガイモというミラクルな野菜を広める活動家になったのです。
ヨーロッパ北部の飢饉を救ったジャガイモ
ジャガイモ主食を唱え広報活動
フランス人の主食と言えば、昔も今もパンですが、その原料となる小麦が凶作に見舞われるたびに値段が高騰し、パリでは市民の暴動が頻発していました。
「ジャガイモは小麦に代わる主食になり得る。カロリーも高く、栄養価も申し分ない」。
パルマンティエの提唱は国王や政治家にとって大きな福音になりました。唱えるだけでなく彼は、上流階級の人々を招いてジャガイモ料理の食事会を開いたり、パリ郊外で畑を作って自ら試作栽培をするなど、啓蒙活動に全力を尽くしました。もちろんベルサイユで流行した可憐な花も、PR戦略の一つだったのです。
ジャガイモ栽培・食卓への普及
国王夫妻も推奨する野菜。小麦に代わる主食。フランスを救う新しい食糧。
インパクトあるスローガンを掲げたパルマンティエの活動は実を結び、ジャガイモは国中で栽培されるようになり、食卓に上ることも多くなりました。
近隣諸国でもジャガイモは飢饉から人々を救う食べ物として認められ、この頃から19世紀前半にかけてヨーロッパ全土へ広く伝搬。餓死者が減り、ヨーロッパ諸国の人口は急増することになりました。
ちなみに世界にジャガイモを広めた功労者である、このアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエの名は、フランスの家庭料理の牛ひき肉とじゃがいもの重ね焼き「アッシェ・パルマンティエ(hachis Parmentier)」など各種ジャガイモ料理に冠されています。
人口急増した市民層のエネルギー源に
ジャガイモのおかげで増大した市民層のエネルギーは大革命を引き起こし、皮肉にも紫の花をつけて普及に貢献したマリー・アントワネットとルイ16世を断頭台へ送り込むことに。
ほどなくしてイギリスでは産業革命が起こり、ロンドンなどの大都市に流れ込んできた大量の労働者を雇って工場を稼働させ、モノを生産するという、現代ではおなじみのシステムが出来上がりました。
農業革命
さらに特筆すべきはジャガイモが「農業革命」のきっかけを作ったということでしょう。生産性の高い大規模近代農業は、野菜や穀物の品種改良を繰り返して育てやすい種に作り変え、化学肥料と農薬を投与して、早くたくさん収穫することを実現しました。
この「工業型農業」もジャガイモを栽培する中で始まったものです。
ジャガイモのおかげで現在の豊かな社会がある
現代社会の形、政治・産業・経済の仕組み、および、文化・ライフスタイルの大部分は19世紀から20世紀にかけて繁栄を極めたヨーロッパ諸国、さらにその業績を引き継いで発展させたアメリカからもたらされたもの。
その欧米の近代化を育んだ食糧ジャガイモこそが、栄養価以上に私たちの豊かな暮らしを実現した、世界史上最も偉大な野菜と言えるのかもしれません。