相撲のはじまりは豊作占い?
村ごとに豊作を願い、お祭りを催して神に祈りを捧げる行為は、弥生時代ごろから始まったと考えられています。収穫した作物をお供えし、様々な音楽と踊りで喜びと感謝を表現していたようです。
お祭りの儀式として行われていたのが、男たちの取っ組み合い。これが相撲の起源と言われています。「日本書紀」によれば、この取っ組み合いは単なる力くらべでなく、その年の作物の実りを占うという側面があったようです。神の前で競い、その勝敗で神の意志を推し量っていたのです。
その後、時代とともに相撲は形を変えてゆきます。平安時代には宮中の行事となり、鎌倉時代から戦国時代にかけては武士の訓練のひとつでした。江戸時代には浪人や力自慢の男たちの中から見世物としての相撲を職業とする人が現れ、庶民の大きな娯楽に発展していきました。もともとは屈強な男たちによって豊作を占っていたものが1500年以上も続き、今や日本の国技となっているのです。
力士は土俵で足を上げ下げして四股(しこ)を踏みます。この所作はもともと大地を力強く踏みしめることで土地から災いを追い払い、豊作を祈願するものでした。相撲でも、土俵の上で力士が四股を踏むことによって穢(けが)れや邪気が払われるとされ「五穀豊穣・無病息災」の意味を持ちます。土俵に塩をまくのは、その地を清めるために塩をまいた名残だそうです。
土俵にお米を埋める いまも続く「土俵祭り」
「土俵祭り」をご存知ですか? 五穀豊穣を神に祈る名残から現在も続いている儀式で、本場所の初日の前日に土俵の無事と繁栄を願って行われます。
土俵祭りは相撲の審判員や行司など、土俵にたずさわる人々が列席しておごそかに執り行われます。場所が始まる前の真新しい土俵の上で、祭主を務める神官姿の立行司が祝詞(のりと)をあげます。そして、相撲の始まりが五穀豊穣のための神事であったことや、土俵ができるまでの成り立ちを口伝(くでん)で受け継いだ言葉で唱えます。
土俵の中央には四角い穴があり、ここに「鎮め物 (しずめもの) 」を納めます。鎮め物は、縁起物とされる「洗米(あらいよね)」「塩」「かやの実」「勝栗」「スルメ」「昆布」の六品。お神酒をそそいで穴を埋めて神へのお供えにします。
かつて相撲が豊作祈願の神事であったことを思い出させる儀式です。
対決相手は稲の精霊 「一人角力」とは
一人の力士が土俵の上で見えない相手と闘う相撲があります。不思議な光景にきっと誰もが目を疑うこれは「一人角力(ひとりずもう)」というもの。一人角力の力士が戦う相手は稲の精霊。稲の精霊が勝てばその年は豊作になると信じられており、三本勝負を行って二勝一敗で稲の精霊が勝つという筋書きです。
一人角力は江戸時代からある神事で、力士の取り組む姿だけで相手が目に見えないところからそう呼ばれるようになりました。一般の相撲と違い神との力くらべであることから、相撲を含めた広義の力くらべという意味で「角力」の文字を用いるのだとか。
現在も、愛媛県大三島町にある大山祇(おおやまづみ)神社の御田植祭(おたうえまつり)と秋の抜穂祭(ぬいぼさい)で一人角力を見ることができます。御田植祭は初夏に田植えの様子を演じて豊作を願うお祭りで、抜穂祭は、神様にお供えする初穂を抜き奉るお祭りです。大山祇神社の一人角力は県の無形民俗文化財にも指定されています。そのほかの地域でも、地域の芸能と混ざり合いながら伝承されています。
相撲は歴史や文化、農耕に関する神事としての要素も強く、世相や人々の思いとともに歩んできました。一度国技館などの会場に足を運び、その奥深さを体感してみてはいかがでしょうか。