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ケネディも尊敬した上杉鷹山~この人、この県!農業偉人伝 (山形編)

ケネディも尊敬した上杉鷹山~この人、この県!農業偉人伝 (山形編)

最終更新日:2018年07月02日

江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)をご存じでしょうか。童門冬二の「小説上杉鷹山」や藤沢周平による伝記「漆の実のみのる国」がヒットしたことから、鷹山は1990年代前半より「理想のリーダー」としてブームが巻き起こり、一躍有名になりました。
農業の発展に携わった偉人たちの功績やエピソードを地域ごとに紹介するシリーズ。今回は、幕末の米沢藩主として農業を中心に改革を行った「山形県・上杉鷹山」を紹介します。

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米沢上杉藩の救世主・上杉鷹山

山形県米沢市の松岬(まつがさき)神社にある上杉鷹山像

上杉鷹山の「鷹山」は隠居してからの号であり、本名は治憲(はるのり)といいます。もともとは日向国(現・宮崎県)高鍋藩主の子息でしたが、縁あって宝暦10(1760)年に、跡継ぎのいなかった米沢藩(現・山形県置賜地方)主・上杉重定(しげさだ)の養子となります。当時の上杉家は借金にあえいでおり、藩の財政は窮地にありました。さらに、洪水や飢饉(ききん)も頻発したことで、どん底の状況だったといわれています。

明和4(1767)年、鷹山は17歳という若さで貧しい米沢藩の主になりました。当時の米沢藩は15万石しかないにもかかわらず、以前120万石の会津藩主だった時の家臣6000人を抱えて奔放な暮らしをしていたため、財政引き締めのため、まずは倹約に取り組むことに。そして藩校(興譲館)を再興させ身分を問わず学ぶことのできる環境を整えました。

田んぼも潤した名君

山形県置賜盆地のようす

「大倹約令」を発して藩政改革を行い、教育にも力を入れた鷹山は、織物業にも取り組み始めます。特産の青苧(あおそ)という植物の繊維を原料とした縮織(ちぢみおり)から、その後発展した絹織物のための蚕の養殖(養蚕)にも手を伸ばし、成果を出します。鷹山の絹織物への思い入れの強さは、隠居後に「養蚕手引」という書物を発行したことからもうかがえるでしょう。

また、農政改革に乗り出した鷹山は、水不足に悩む地域のため、用水事業に取りかかります。藩と村民が一体となり作り上げた北条郷(米沢市北部から南陽市までの地域)の農業用水路「黒井堰(くろいぜき)」と「穴堰(あなぜき)」は、貧しかった米沢盆地北部の田んぼを潤し、現在も水田に水を送り続けています。鷹山の改革成功の裏には、武士と藩民一体となっての協力がありましたが、これは鷹山自身が地を耕し、藩のことを思うという、彼の心がけあってのことだといえるでしょう。

ケネディ大統領が最も尊敬する日本人

山形県米沢市上杉博物館

第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディが大統領に就任した際、「一番尊敬している日本人はだれか」との質問に「上杉鷹山」と答えた、という逸話があります。当時日本でもそれほど知られる存在ではなかったはずの上杉鷹山を、なぜケネディは知っていたのでしょうか。

現在では、内村鑑三(うちむら・かんぞう)が英文で書いた「代表的日本人」をケネディが読み、そこに記された上杉鷹山のエピソードに心を打たれたというのが定説となっています。当時、日本でもあまり知られていなかった鷹山がアメリカ大統領の心を揺さぶったことに驚きです。

鷹山は藩政から退いた後も、没するまで農業の研究を続けました。幼いころに知らない土地で養子として暮らし始めた彼が、生涯をその地の繁栄のために捧げたことからは、改革を引っ張るリーダーとしていかに献身的であったかを知ることができます。

上杉鷹山の生涯や功績については、米沢市の米沢市上杉博物館で見ることができますので、訪れてみてはいかがでしょうか。

次回も、日本の農業をリードした人物を紹介します。

参考
米沢上杉藩の水を拓いた上杉鷹山:農林水産省
上杉鷹山(治憲)生家跡:米沢市
[伝国の杜]米沢市上杉博物館

上記の情報は2018年5月29日現在のものです。

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