秀吉に仕え、日本三名城のひとつ・熊本城を築いた清正公
「清正公(せいしょうこう)さん」とも呼ばれる加藤清正は、永禄5(1562)年に尾張の国(現在の愛知県)で生まれました。父は清正が子どものころに亡くなり、少年の清正は羽柴秀吉に小姓(身辺の雑用をする者)として仕えることになります。
その後、天正16(1588)年に27歳で肥後の北半分(当時「隈本」と呼ばれていた現・熊本県の地域)に移って大名となりました。その後熊本城の築城に取りかかり、慶長12(1607)年に城が完成すると、地名も「隈本」から「熊本」に改めました。熊本城はその美しさから、城の愛好家たちの間でも特に人気の名城です。2016年の熊本地震で大きな被害を受けてしまいましたが、現在、復興作業が着々と進められています。
今なお称えられる“土木の神様”
清正は熊本城をはじめとした数々の名城の築城や改修を手掛けただけではなく、領内の土木・治水事業にも力を注いだことから、「土木の神様」と呼ばれています。
例えば、現・熊本県菊池郡菊陽町の馬場楠井手(ばばくすのいで)という農業用水路に残る「鼻ぐり井手」。「井手」と呼ばれる用水路を壁で仕切り、その壁の底に穴を開けます。こうすることで底の水の流れを速くし、“ヨナ”と呼ばれる阿蘇山の灰土が底に溜まって水の流れが悪くなるのを防げます。
また「渡鹿(とろく)用水」も清正が残した功績の一つ。慶長年間に築造されたといわれており、熊本県の中北部を流れる一級河川の白川(しらかわ)をせき止め、樋門(ひもん・堤防を通り抜ける水路)を通じて水を大井手に引き入れたのち、三つの井手に分水するシステムです。
領内の工事をする際には必ず自ら現地を視察し、どの場所を選べば最大限の利益が得られるのかを考えていたという清正。これらの用水は熊本の農業に大きな利益をもたらし、現在でも形を変えつつ活躍しています。
現代でも大活躍!“清正公さん”の地下水システム
清正は、渡鹿用水の他にもたくさんの堰(せき)を設け、田畑まで送水するための井手を整備しました。築いた取水堰は大小合わせて29カ所、かんがい面積は約3500町(約3470ヘクタール)にものぼったそうです。
また、熊本は長年にわたる阿蘇火山噴火の影響から大量の火山灰が降り積もり、水が浸透しやすい土壌となっています。そこへ清正が水田を開いたため、大量の水が地下へも供給されました。熊本の土壌に清正の努力が加わったことで、水道水源を全て地下水でまかなう、世界でも珍しい地下水都市・熊本が誕生したのです。清正の功績は、死後400年以上経った今も、熊本の人々の生活を助けています。
このようにして熊本の発展に尽力した清正は50歳で亡くなりますが、今でも尊敬と親しみを込めて「せいしょうこうさん」「せいしょこさん」と呼ばれ、熊本城内の加藤神社に祀られています。熊本の人々にとって、清正が行った事業がいかに熊本の発展に欠かすことのできない大切なものだったかがうかがえます。
あなたも、熊本の農産物を、清正の功績を思いながら味わってみてはいかがでしょうか。
次回も、日本の農業をリードした人物を紹介します。
参考
加藤清正公生誕450年・没後400年記念事業公式ホームページ
熊本水物語の伝承/くまもとウォーターライフ(熊本市水保全課)
※上記の情報は2018年6月14日現在のものです。