なぜ事業を多角化したのか
ファーマンの畑は、南アルプスや八ヶ岳に囲まれた山梨県北杜市にあります。井上さんは2001年に埼玉県から移住し、30アールほどの農地から始めて2017年に農業生産法株式会社ファーマンを設立。2023年現在では16ヘクタールの農地を持ち、7人の従業員がいます。井上さんが手掛ける事業は、有機JAS認証を取得した野菜の栽培・加工・販売をはじめとし、ボルダリングジムの運営、農福連携、地域ガイド、企業や学校に向けた農業体験、子ども向けの農業ゲームの開発、人材派遣業、さらにはグランピング施設の運営など、実に多角的。農家というよりもはや実業家です。
特に今は、グランピング施設のグランドオープンに向けて目下準備中。きっかけは、企業から台湾の富裕層向け農場キャンプ企画について打診を受けたことでした。台湾の富裕層観光客は、銀座などでの買い物に飽きており、まだ知られていない日本のコアな文化に触れることがステータスになっていると聞いたのです。
「台湾人観光客は、日本のホスピタリティーや有機野菜のクオリティーの高さもよく知っているのだそうです。特に子育て世代となると、家族での農業体験や食育のニーズもあります。そこで、日本の田舎に1週間ほど滞在してもらい、畑で収穫体験をしたりジビエを食べたりと、“お客様のためにカスタマイズされている体験”を提供できるようにしたいと考えたのが始まりでした」
インバウンド向けに準備を進めていた事業でしたが、都心に住むファミリー層にもニーズがあるのではと2019年頃から日本人向けに始めることに。初めは1日1家族限定で、井上さんが付きっきりのガイドとなり、地元・北杜市の遊びをさまざまに紹介していくというプランでした。
「魚釣りがしたい、山に登りたい、カヌーに乗りたい……。ご家族の希望に合わせて案内します。反応が良くて、ほとんどのご家族がリピーターになってくれました。そうするとだんだんと、僕に会いに来てくれるようなかたちにもなっていきましたね」
成長の分岐点は何だったのか
寝袋で畑の隣で寝ていた就農当初
事業が成長し、ファンもついているファーマンの井上さん。一見、順風満帆に見えますが、苦しい時期もあったといいます。
埼玉県から友人と移住して新規就農したものの、早々に友人が離農。農作業が追いつかず、寝袋を持って畑で寝泊まりをしたことも。さらに、苦労して栽培した野菜の収穫直前に取引先が倒産し、手売りをした過去もあります。
農業だけでは生活できず、アルバイトや副業をしながら生活費を賄いました。「農業だけでは食べられなかった時期が5年くらいはありましたね」と井上さんは振り返ります。
「やればやるほど新しくやりたいことが湧いてくる」
「今、当社は有機農業の農業生産法人としては、中ぐらいよりは少し大きいくらいだと思います。人によっては『これだけの事業規模なら成功者だよね』と言ってくださる方もいます。ですが、成功だとは思っていません。僕はいろいろな人と一緒に新しいものを生み出すことが好き。そういう『やりたいことができている』という意味では成功しているともいえますし、『やればやるほど新しくやりたいことが湧いてくる』という意味では、僕の中では成功していないともいえるんです」
そうして新しく始めてきたのが加工品、農業体験、農福連携などの事業なのだそう。初めは“点”だった事業が、周囲に「こういうこともやっているんです」と話すと「うちもやりたい」「じゃあ、つなげましょうか」と話が進み、 “点”が “線”に、“線”が“面”になったと井上さんは言います。
「声をかけていただく取引先様にとっても、ファーマンは『あれもできる』『これもできる』ということで重宝していただけているんだと思います」
井上さんに相談すれば何か解決してくれそうというイメージが、さまざまなチャンスを引き寄せてきたといえるでしょう。
声かけの具体的な一例が、冒頭でも紹介したテレビ番組「工藤阿須加の楽しい農業生活」です。
もともとは、ファーマンが、地域の宿泊施設と一緒にグリーンツーリズムを行っていたことがきっかけ。ある時、その宿泊施設にテレビ制作会社から「農業を教えてくれる人はいないか?」と相談があり、井上さんが紹介されたそうです。
「阿須加君は埼玉県所沢市生まれで、僕も所沢なんです。会った瞬間に意気投合したんです」
熱意が行動の原動力に
成功者だとも見られる井上さんですが、「お金をためることにはあまり興味はない」そう。取材中も「自分だけもうけたい」「自分だけ良い思いをしたい」という欲を原動力にしているようには全く見えませんでした。
ただ純粋に興味を持ちながら動き、そして全力で取り組むという姿勢が、各取引先から信頼され、相談を受ける理由なのだと感じます。
林業や水産業にも挑戦
井上さんは現在、地域に貢献したいという移住者と人材不足に悩む地元企業をつなぐ人材派遣会社の設立準備に動いているほか、地域や農業など、広く長い視野で事業展望を描いています。
「2019年から農林水産省の委員会にも携わっています。そこでは“農林水産業”全体がテーマになっているので、おのずと農業以外についても考えるようになりました。農業のみならず、水産業にも林業にも課題があり、やれることがあると思っています。僕としては、2年以内には水産業を、5年以内には林業に携わる予定です。水産業では、自分が好きな光り物の魚を育てようかと思っています(笑)」
そう話す井上さんの表情は本当に楽しそうで、新規事業を立ち上げるというより、純粋に楽しいことを追い求めているようでした。
その熱意が周りの人を動かし、また新しい活動につながっているのだと思います。
(編集協力:三坂輝)