取引先に紹介したくなる青ネギ農家
大阪の中心部から電車で30分ほど、富田林(とんだばやし)市の住宅街に点在する畑で、ひたすら青ネギを周年栽培する農家がいる。「まるさんふぁーむ」の浦田三織さんは2015年に独立して以来、青ネギ一筋だ。もともと富田林市はナスやキュウリが主要作物。青ネギを栽培する農家は珍しい。そんな地域で、浦田さんは青ネギの需要をとらえた。「今、数が足らんぐらいお客さんに求めていただいてます」と浦田さんは言う。
差し出された彼女の名刺に書かれた肩書は「作り手」。いつまでも畑で働いていたいという彼女の思いを反映したものだという。
栽培品目を青ネギに決めたのは、最初に農業に携わった香川で見た青ネギ畑がきれいだったから。その後あちこちの農家を転々としながら農業を学んだが、「いつか青ネギを地元の大阪でやりたい」と願い続け、実現した。今は周年で契約栽培をしている。「売り先を決めて作る」のが彼女のスタイル。求められるものをきちんと作るという、堅実で実直な農業経営をしている。
そんな浦田さんだが「一度もネギを担いで営業をしたことはない」と言う。営業が苦手だからではない。彼女の前職は広告代理店の営業で、むしろ営業は得意だ。しかし、営業するまでもなく、紹介で契約が決まっていく。浦田さんは周りの人が“紹介したくなる農家”なのだ。
独立就農に導いた「雑誌」「おみくじ」「師匠」
浦田さんは就農した富田林市よりも大阪市内に近い藤井寺市の出身。実家は非農家、27歳までスーツとハイヒールで歩いていたという。
農業との出会いは、とある雑誌の表紙のコピーがきっかけだった。浦田さんは当時勤めていた広告代理店でコピーを書くことがあり、その勉強のために多くの雑誌も見ていた中に『農業がニッポンを救う』という表紙の雑誌があった。
「その雑誌を読んで、日本を救いたいとは思わんかったけど、農業がどんなものなのか知りたくなって。それで、その日のうちに上司に農業したいと言ってましたね」
そこからの行動も早かった。すぐに短期で働ける農家を探し、香川の農家に行って半年間働いた。当時はまだ元の暮らしに戻る気持ちもあったという。しかし半年たって大阪に戻った際に神社で引いたおみくじが彼女の運命を決めた。
「このみくじにあたる人は農業の時を得て種をまき苗を植えるがごとし……」
このお告げで自分の進むべき道は農業と気づき、最初に香川で見た青ネギ畑を地元大阪で実現することにした。そこから全国各地の農業現場で経験を積み、大阪に戻ったのは2013年だ。
大阪で就農するために、独立前提で働かせてくれる農園をインターネットで探した。たまたま求人を出していたのが富田林市のナカスジファームだ。浦田さんはナカスジファームで2年ほど働いたのちに独立。その際にはナカスジファームが借りていた畑の利用権を社長の中筋秀樹(なかすじ・ひでき)さんが浦田さんに譲ってくれた。
「地主さんに土地の利用権を移す許しをもらいに行ったとき、社長の中筋さんが『この子が逃げたら僕がケツ拭きますから』とまで言ってくれはって。今ここで農業ができているのは本当に中筋さんのおかげです」と浦田さんは言う。
ナカスジファームの恩恵はそれだけではない。中筋さんは浦田さんに売り先も紹介してくれたのだ。
ナカスジファームの主力品目はナスとキュウリ。しかし、弟子である浦田さんが「青ネギをやりたい」と言っても全く反対はせず、むしろ応援してくれたという。「違う作物やってたらお客さんを紹介しあえるやんって言わはって、青ネギ探しているお客さんを紹介してくれました」
地域への恩を返すのが新規就農者の道
浦田さんを応援してくれるのは、師匠の中筋さんだけではない。彼女は、そのほかの地域の農家の重鎮方にも認められる存在になっている。
2018年の夏、大阪が台風に見舞われ、浦田さんのハウスが倒壊してしまったことがあった。その時に多くの農家が、自分も被害を受けているにもかかわらず助けに来てくれたという。「ハウスが壊れて、修理の見積もりを取ったら1000万円って言われて、熱出て寝込んでしまって。その間に重鎮の皆さんが『三織の畑行くぞ』って集まって、曲がったパイプを押し上げてくれたおかげで、見積もり額が200万円まで下がりました」
浦田さんが周りの協力を得られるのはなぜなのだろうか。
やはり、彼女が朝早くから夜遅くまで畑を飛び回り、作業場で調整作業をし、配達のためにトラックを走らせる姿を周囲の重鎮と呼ばれる農家たちがしっかり見ているからだろう。
「今ハウスの中に雑草が生えているでしょう? これがネギの根元にも生えてたら手を抜いているということ。もちろんまわりも刈らんとあかんけど、大事なところはしっかり世話してるから、『ああ、今は忙しくて通路の草まで抜かれへんのやな』と皆さん理解してくれてはると思います」
農作業だけでなく、地域の活動に積極的に参加することも大事だと浦田さんは言う。「とにかく地域の飲み会に出て、重鎮さんたちとコミュニケーション取ってますね。地域で何かやろうというときは必ず顔出して、できることがあったら手を挙げてます」
浦田さんがこのような行動をとるわけは、やはり新規就農の時に周りの農家のお世話になったから。「恩恵を受けるだけじゃなくて、それをまわりに返さなあかん」と浦田さんは強調する。それができない新規就農者はつぶれていくとも語った。
「独立するのが大事みたいに思ってる新規就農者がいてるけど、独立するだけならお金出せばできる。大事なのは続けていくこと。それが難しいんです」
苦労はあっても失敗はない
浦田さんは、ずっと一人で地域に点在する8反の畑を切り盛りしていた。しかし2022年、生産量を増やすため初めて従業員を雇用、畑も1反増やし生産体制を整えた。
そんな矢先、2023年の夏は猛暑で青ネギが不作に。ネギはもともと寒い季節の野菜で暑さに弱いため、植え付けをしても育たず、収量が上がらなかった。契約先には頭を下げ、出荷を止めさせてもらったり、量を減らしてもらったりして乗り切った。
「本当に2023年はどん底でした」と浦田さんは言うが、その表情は明るい。
「私、おみくじで農業への道が決まった時から、絶対失敗しないと思ってるんです。神様に導かれてるのに、なんで失敗せなあかんねんって。2023年は苦労しましたけど、失敗はしてません」
その証拠に、今年の不作を二度と繰り返さないための努力は惜しまない。青ネギに出会った香川の農家に連絡をして、水やりや土づくりなど暑さへの対策を一から教わり、それをすべて実践してみた。新しい品種もいくつも試して、これと思えるものにも出会った。「来年はもう大丈夫」と浦田さんは自信を見せる。
そして今は、新しい品目にも挑戦している。関西で出回るつけ菜の一種「しろ菜」だ。取引している仲卸業者から作ってみないかと言われて栽培を始めた。「これからは青ネギだけでなく需要のあるものを作っていきたい」と浦田さんは意欲を見せる。
次の世代のために、いつかレクサスに乗る
浦田さんの根底にあるのは、やはり農業への思いだ。この道で生きていく、この地の農業を守っていくという気持ちが伝わってくる。
「苦労しているように見えるかもしれんけど、私、めっちゃ農業が好きなんです。いつまでもこうやって畑で働いて、良いものを作っていきたい。世の中には規模を大きくしたら社長業に専念する農家もいてるけど、私はずっと畑に出ていたいんです」という。
地域の就農者を増やしたいと、数年前から農業塾の運営にも携わっている。今では就農希望者の相談も寄せられるようになった。そんな後輩たちに「自分が稼いでレクサスに乗る姿を見せたい」という。
「私みたいな新規就農者がお金をもうけることに意味があると思ってるんです。苦労した新規就農者がレクサス乗ってれば、後輩たちに夢を与えられるじゃないですか。やればできるんやって」
そのためにも、浦田さんは今日も畑に出る。