初志貫徹し酪農の世界へ
都心から電車とバスを乗り継いで1時間半の場所にある、東京都あきる野市の養沢地区。山奥へ続く一本道に並ぶ最後の一軒が、堀さんの牧場とチーズ工房です。この場所へ3頭の雌ヤギを連れて、妻と子供3人の家族5人で移り住み、堀さんは30歳の2020年夏に「養沢ヤギ牧場」を開きました。5年目を迎えた現在は10~12頭のヤギから搾乳し、最盛期で1日あたり40〜50個のチーズを製造しています。
東京理科大学の学生時代、堀さんには「手に職をつけ、自分で完結できる仕事がしたい」という考えがありました。その有力候補が農業。トマトやシイタケの栽培・加工も考えましたが、酪農家でチーズ職人という生き方に理想像を見いだしました。とはいえ、いきなり酪農へ飛び込むには悩むところがあり、「会社員になっても気持ちが変わらなかったらやろう」と心に決めて建設系の企業に就職。その3年後、堀さんの姿は酪農が盛んな北海道新得町にありました。
それからは新規就農に向けて模索。2年間、共働学舎新得農場でチーズ作りの修業をした後に東京へ戻り、八王子市の牧場での研修中に一頭の妊娠中のヤギを購入。ほどなくして2頭の雌のヤギが生まれ、3頭のヤギ飼いになりました。
同時に出身地のあきる野市(旧五日市町)で用地を探し始め、家屋と小屋のある約1ヘクタールの土地を見つけました。2年間の研修が終わるまでいくらかの地代を納めて確保し、最短でスタートを切りました。ヤギ小屋の建築やチーズ工房の改装は木工職人の父の手も借りながらDIYで進めたといいます。父は「やるならいいもの(チーズ)を作らないとな」と背中を押してくれたそうです。
規模は拡大よりも適正化
堀さんがチーズを製造するのは、ヤギの出産シーズンの4月から搾乳が終わる11月までの8カ月間。2024年の春は、4月半ばまでに成ヤギ17頭のうち10頭の母ヤギから23頭の子ヤギが生まれ、これからさらに2~3頭が生まれる予定。総数40頭強になりますが、飼いたい人へ売却するなどして、理想の頭数に抑え、これ以上の規模拡大は考えていないといいます。
「日々、ヤギの世話とチーズ製造、納品や実作業が多い中で飼育できる数には限りがあります。そのため、乳の出がいいヤギを残して適正な規模を保っています」と堀さん。初年度こそ3頭のヤギの乳量で作れるチーズ(1個80g)は1日あたり十数個でしたが、順調に繁殖させて現在の規模に至ります。
「今のところ規模拡大は考えていません。自分で完結できることに軸を置いているので適正化が重要です」と話す堀さん。北海道ではなく東京を舞台に選んだ理由もそこにあります。
堀さんにとって、ヤギの飼育からチーズの製造・販売まで、自分の手に負える規模と範囲で、酪農を持続できるのが東京圏だったのです。
チーズ作りに大切なのはヤギの世話
堀さんが作るヤギのチーズは、ソフトタイプの一種類のみ。朝晩に搾乳した2日分のミルクを一度に仕込みます。
一般的には、底に穴の開いた円筒カップにチーズを入れて脱水しながら成形しますが、堀さんは脱水と成形の工程を2日に分け、前日に仕込んだミルクを鍋から布袋に移して脱水し、翌日に一つ一つ手で丸めて成形します。
製造のこだわりを尋ねると、堀さんは「結局は原料が全て。ヤギが健康で、乳質の良いミルクがとれなければ、チーズ作りもうまくいきません」と話します。堀さんが作るチーズは、日々のヤギの飼育と健康管理の成果です。
牛ではなくヤギを選んだ理由
牧場の仕組みが整った今、次の課題はエサの自給です。現在は、輸入の干し草に頼っていますが、沿道の山を買うか借りるかして山林を切り開いてヤギを放牧し、同時に畑を借りて牧草を収穫して与え、エサの自給率を高めたいという堀さん。
「酪農をはじめる際、はじめは牛を飼うことを考えていましたが、都内で平らで広い土地は借りられないし、臭いなどで近隣に迷惑をかけられません。このため山の斜面でも飼えるヤギを選びましたが、結果、正解だったと思います」と堀さん。人口密度の高い関東圏でスモールに、いいチーズを作り、買いに来てもらうというのが当面の方向性です。
「販売先は地元地域から徐々に広げていきたい。現在は一種類のみですが、熟成期間の長いチーズにも挑戦したいです」と語ってくれました。
「ヤギ飼い」というとロマンがあると勝手に想像してしまいますが、軸は生涯仕事として成り立たせていくこと。妻は在宅で別の仕事に就き、子どもは7歳と双子の4歳。「仕事にいくら時間を割いてもよければ規模拡大をするかもしれませんが、ライフステージに合わせて総合的なバランスの取れた規模でやっていきます」と話します。
この3月から週3日のアルバイトを雇用して、多少時間の融通が利くようになりましたが、そのぶん乳量を確保してチーズを多く作らなければと堅実なスタンス。酪農の参入障壁を越えた令和のヤギ飼い兼チーズ職人は等身大で、そこが山の斜面でも地に足をつけて歩んでいました。