農業専門の社労士として労働力不足の課題に向き合う
京都府出身の橋本さんは大学を卒業した年、家業である青果物集荷人をしていた父の急逝に伴い、地元農家との集荷業務を引き継ぎました。仕事に向き合う中で感じたのは、農業の行く末への不安。京野菜の栽培が盛んな地元上鳥羽地区では「自分の代で農業は辞める」という農家が増加。都市化による農地の減少も目の当たりにし、やがて青果物集荷の仕事も消えゆくだろうと覚悟していたと言います。
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こうした事象の根幹には農業はもうからないという意識があり、橋本さんは青果物集荷人の目線で「もうからない農業を子どもに継がせるわけにはいかないという意識がある」とみていました。農家は青果物を委託販売するため、出荷後の流通や販売価格についてほとんど情報が得られないまま低価格での取引を余儀なくされることも多くあります。労働負担が大きいにも関わらず低価格で取引されることが、農業への意欲低下や後継者不足を助長していました。
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橋本將詞さん
青果集荷業の傍ら、社労士の資格を取得し、自身の名を冠した事務所を設立したのは20年前。父の死去時に受給条件が満たされず遺族年金を受け取れなかった経験から、年金制度への関心を深めた延長線上でのチャレンジでもありました。
家族経営から法人化へ。過渡期の課題をチャンスに変える
顧客の9割以上は農業経営者。社労士として彼ら彼女らと向き合ってきた約20年の間に、農業は大きな転換期を迎え、従来の家族経営中心から企業的経営へと急速にシフトしています。
「私が社労士になった頃、農業法人はごく僅かで雇用自体が話題になりませんでした。今は若い経営者が次々と現れ、大規模農業法人で従業員を雇用するのが一般的になってきています。若い世代にリーチするため、SNSやデジタルマーケティングなどの新たなビジネススキルも必要です。これにより、従来の農業現場には無かった人材育成や労務管理といった新たな経営課題が浮上しています」(橋本さん)
その一方で、伝統的な農村地域では高齢化や担い手不足に伴う耕作放棄地の増加が著しく、食料安全保障などの観点から危機感が高まっています。「これ(上鳥羽での農業現場)が日本の農業全体の縮図だと思います。農業を守っていくには、雇用型の大規模農業が地域の担い手となって守っていくしかないと考えました。しかし、ここでは前述のような人材育成や労務管理といった課題が生まれます。その課題にどう対応していくかが、今、問われているのです」
人材育成の成功は労務管理にかかっている
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橋本さんがキーワードとして挙げた「人材育成」と「労務管理」について深堀りして伺いました。
橋本さんは現場でよくみられる人材育成の課題について「農業現場では作業員は存在するものの、中間管理職やリーダー層の不足が深刻な課題となっています。経営者は入社年数の長い従業員にリーダーになってほしいと望んでいますが、その前提となるリーダー像の定義や求める役割・権限の明確化ができていないのが実情です」と指摘します。
まず、職務記述書や権限書の作成や権限委譲をすすめることを通じて、期待される役割を明確にすることが効果的な人材育成の第一歩だと言います。その上でリーダーの育成には、日常業務から適度に切り離し、計画的なカリキュラムと育成時間を確保することが重要だと強調します。
しかし、農業法人の経営において人材育成や経営理念の浸透以前に重要なのが労務管理であると、橋本さんは語ります。労働時間や休日の管理、労働契約の整備など、これらの基本的な労務管理は、従業員が安心して働くための大前提となるからです。
「就業規則の整備や雇用契約に則った残業手当の支払いなどの労務管理の取り組みは、従業員から積極的な評価を得られるものではありません。これらは当然のことで働く上での最低限の条件だからです。しかし、この土台がぐらついていては、いくら充実した研修制度を設けても、また素晴らしい経営理念を掲げても、従業員の心には響きません」。橋本さんはこう語気を強めます。
「なぜなら、日々の生活や労働条件に不安を抱えている状態では、従業員は前を向いて仕事に取り組むことができないからです。つまり、労務管理は人材教育の効果を最大限に引き出すための必須条件であり、農業法人の持続的な成長を支える礎なのです」
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研修会で、労務管理の重要性を解く橋本さん
労働安全の当たり前が、経営者の夢をかなえる
橋本さんが労務管理の中でも特に重要視するのが、労働災害と労働時間です。
「農業の労災は実のところ、今でも実態把握が難しい状況です。これまでの家族経営中心の農業では、作業中の事故があっても労働基準監督署に届け出る仕組みがありません。最近は農作業事故の情報収集の強化がされたことによってあらゆる方面から事故情報が集まっていますが、事故の実態と予防するための法律が無いことに加え、労働者に向けてであれば、労働安全衛生法を農業現場にどう適用していくかという課題は依然として残っています」
こうした背景下で、いかに普段の研修や引継ぎなどで事故の未然防止を徹底できるかが職場環境づくりのカギを握ると橋本さんは話します。
労働時間の管理についても、法定労働時間の「1日8時間、週40時間」という法定労働時間をそのまま当てはめるのではなく、まずは「実際に今、何時間働いているのか」という実態把握から始める必要があると言います。
農業は作業が常に発生しやすい仕事なので、その実態に合わせた所定労働時間を設定して、そこから少しずつ効率化を図っていくことが重要だと橋本さんは語ります。「特に農産物は自分で価格が決められないので、利益を出すには原価管理が重要です。そのためにも実際の労働時間の把握は避けて通れません。GAPの考え方も取り入れながら、作業の効率化と労務費の適正化を両立させていく。そういう工夫が、これからの農業には必要になってくると思います」
そんな橋本さんが情熱を注いでいることの一つが、京都発のレモン栽培とブランディングを目指す「京檸檬プロジェクト」です。約7年前から始めたこの取り組みのきっかけは、顧問先の加工業者を通じて知った、レモンサワーブームと瀬戸内レモンの生産・供給量と実態のギャップ。京都産ブランドレモンの産地化に可能性を見出しました。「大手メーカーを巻き込んで、植えた苗を一緒に見守ったり、実がなるまでの時間を共有することで、収穫までにこれほどの時間が掛かるということを身をもって理解してもらえました」
今、大手企業が日本の農業に本気で向き合い始めています。まだまだ課題は山積みですが、農業の未来は確実に広がっています。だからこそ、橋本さんは若い人たちに言います。「農業は、夢がある産業ですよ」と。