スーパーで売られている野菜が、誰が、どこで、どうやって作られたのか分からず、本当に安心して食べられるのか?と気になった経験はありませんか?
農産物の半数以上が流通される卸売市場について調べると、この疑問の答えがあるかもしれません。
農産物の半数以上が流通されている卸売市場
今日、農作物の流通ルートは多様化しており、生産者から直接スーパーや店舗に商品を販売する方法や生産者から直接消費者に商品を販売する流通ルートも増えてきました。しかし実際には今もなお、野菜類の約76%、くだもの類の約47%が、卸売市場を経て流通しています。
そもそも、その卸売市場とはどのような場所なのでしょうか?
卸売(おろしうり)は、商品流通の過程で、製造・収穫(生鮮食品)と小売の中間に位置する経済(販売)活動を行う業種のことをいいます。
卸市場の流通ルートを確認しながら、具体的に見ていきましょう。
一般的な農産物の流通ルートは、以下のようになっています。
生産者(農家)→出荷団体(農協など)→卸売市場→小売業者(スーパー、八百屋など)
まず生産者(農家)の手で収穫された農作物は地元の出荷団体(農協)へと出荷されます。
その後、価格が決められ卸売業者へと販売されます。卸売業者からスーパーマーケットや量販店などの小売業者へ販売されます。小売業者は私たち消費者に商品を販売するという流れです。
そもそも、なぜこのような卸売業者という存在が必要なのでしょうか?
この卸売業者の歴史はとても古くから存在します。
卸売業はいつからはじまったの?
日本における卸売の歴史を見ていくと、江戸時代にまでさかのぼります。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸城内の台所をまかなうために、大阪から漁師たちを呼び寄せて、幕府に魚を納めさせました。
一方、漁師たちは獲れた魚の残りを日本橋のたもとで売るようになり、これが市場のはじまりとされています。
江戸時代の魚市場では、漁師たちが直接お客さんに魚を売るのではなく、「問屋」と呼ばれる商人が店を構え、魚の仕入先である生産地と結び付き、独自の流通組織を作り、発展しました。この「問屋」がのちの卸売業となります。
そもそもなぜ、漁師は直接お客さんに魚を売るのではなく、問屋に魚を売っていたのでしょうか。理由は、藩が問屋を通さずに売ることを禁じたからです。
明治の時代に入っても問屋は流通の中心として機能していました。
第一次世界大戦が終わった1918年(大正7年)、「米騒動」が起き、国民の食生活が不安定になり、国は対策を検討する必要が出てきました。中でも、生鮮食品の安定供給の必要性が高まったことから、取引の正常化や適正な価格形成を目的として、1923年(大正12年)に中央卸売市場法が制定されました。
また、漁業技術の発達や冷凍技術の進歩によって新鮮な魚が大量に水揚げされるようになり、野菜や果物は、農協などの出荷団体の組織が整い、生産の規模も拡大しました。
そしてトラック輸送の進展で全国各地から市場へ荷が集まるようになったのです。
次第に大量生産・大量販売の構図が確立されていき、物不足は改善されていきました。
時は流れて現在は、コンビニエンスストアやスーパー、インターネットショッピングのように消費者のニーズの変化に伴い、小売形態が多様化しています。これに伴い、小売業と密接な関係がある卸売業にも変化が起きているといわれています。
いかがでしたか?
今回は卸売の基礎知識として、歴史についてご紹介しました。
一見非効率なのではと思ってしまう卸売業ですが、江戸時代から今の時代まで残っているということは、農作物の流通において、卸売業がとても重要な役割を担っているのですね。今後、卸売業がどのように変化していくのか気になります。
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