島中で牛と出会える
知夫里島は、島根県・隠岐諸島最南端に位置する島です。地形は東西に細長く、山が連なっています。隠岐諸島全体が世界ジオパークに認定されており、知夫里島でもたくさんの絶景が見られます。観光名所の赤ハゲ山からは約600万年前に形成された島前カルデラの美しい景色を360度の大パノラマで望むことができますし、1キロメートルに渡って広がる火山の断面「赤壁」は、迫力満点です。
また、たくさんの自然が残る島の中を移動していると、いたるところで牛と出会います。600名程度の人口に対しておよそ500頭の牛がいる上に、島の面積の約半分の654ヘクタールほどが放牧場として利用されているため、島中で牛を見られるそうです。
牛飼いは、2017年9月現在で22名。牛は食肉用の繁殖牛なので、ある程度大きくなると年に3回ある競りで売られます。知夫里島の子牛は、日本全国から仲買人が買いに来るほど人気です。放牧で育っているので、足腰が強く、健康で大きくなりやすいと言われています。
畜産業は、知夫里島の一大産業。島内では米を作っておらず、作られる野菜もほとんど自家消費用のため、農業はありません。漁業は海の状態で安定しないこともあるので、安定した産業として畜産が重宝されています。
土地の有効活用を続けた歴史
知夫里島の放牧や畜産の歴史について、知夫村役場産業建設課の川本博樹(かわもとひろき)さんにうかがいました。食肉牛の繁殖が行われるようになったのは、ここ50年ほどと言われています。
「以前は、知夫里島でも米を作っていたので、各家庭で農耕用の牛を飼っていたそうです。ただ、牛を使役するのは田植えや収穫時期など一定期間のみ。その時期のためだけに、一年を通して家庭で牛の世話をするのは大変です。そこで、手間を減らすために、島民の土地をお互いにシェアして、島中で放牧を始めたと言います。放牧なら、糞尿の処理や餌やりの手間が省けます。それが、今のように、土地を共同管理した放牧の始まりと言われています。」
さらに、島内では、牧畑(まきはた)と呼ばれる輪転式農業が行われていたそうです。牧畑では、島を「放牧する土地」「大豆を育てる土地」「麦を育てる土地」「休ませる土地」の4つに区分して、季節や年ごとに土地の役割を変えていきました。牛馬の放牧により雑草の駆除を行い、ふん尿により地力を回復し、作付けする作物を時期により変えることで、連作障害を防いだと言います。
火山島なので、農業に適した肥沃な土地があるわけではありませんが、今ほど交通手段の発達していなかった時代、食糧を自給することは必須。土地を有効活用する発想に至ったのは、自然なことだったのです。
肉牛の需要の増加
農耕用の牛を飼っていた知夫里島ですが、戦後、次第に状況は変化します。日本人の肉の需要の増加に伴い、食肉用の牛を育てるようになったのです。以前より放牧をしていたため、牛を育てることは難しくありません。しかも、米を作るよりも肉を売るほうが遥かに稼げたので、次第に米をつくる人はいなくなったそうです。
それは自然の流れだと、川本さんは言います。
「畑に適した土地ではなかったけど、湧き水も出るので、放牧には適した土地だったのだと思います。米や大豆を作っていた暮らしから、食肉牛の繁殖に産業が移っていったのは当然のことなのかもしれません。条件が悪い離島だからこそ、あるものは有効活用するという考えが根付いているのです。」
牛がいるのが当たり前の暮らし
現在、知夫里島には4つの放牧場があります。昔と同じように、放牧場として使われている土地にはそれぞれの権利者がいますが、公共牧場として村が一括で管理をしています。放牧場を借りる金額は、1頭年間3000円ほど。他の土地で放牧するのと比べて、かなり格安な値段で、放牧をしたい畜産農家にとっては天国のような島です。
654ヘクタールの牧場に対して、牛は500頭ほど。ただし、崖があったり、木が生えていたり、草が生えていなかったり、牛が住めない場所もあるので、実質は1頭につき1ヘクタールほどの土地を使えるそうです。川本さんは「ちょうどいいバランスだと思います」と話します。
放牧は、産業として島の経済を支えるだけではなく、島の景観を保つのにも有効と言われています。一般的に、休耕地や山間部は荒廃しがちですが、知夫里島では牛が雑草を食べてくれるため、人の手をあまりいれずとも綺麗な状態で保たれているそうです。
島で生まれた人にとっては、牛がいるのが当たり前。牛が放牧場から逃げ出して町に出たりすることもありますが、それも踏まえて牛と一緒に暮らしています。
素朴で、たくさんの自然が残る知夫里島。そんな島の生活を支える畜産の歴史や文化を体感するために、足を運んでみてはいかがでしょうか。