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品川ビジネス街は肉から開発 芝浦と場・食肉市場のあゆみ昭和・平成史

品川ビジネス街は肉から開発 芝浦と場・食肉市場のあゆみ昭和・平成史

農林水産省発表の食糧消費に関するデータ(食糧需給表)によると、前回の東京オリンピック(1964年=昭和34年)の頃で、日本人が食べる肉の量は年間一人当たり約5キロでした。それから半世紀経ち、東京で2回目のオリンピックを開催しようとしている今、それは30キロを超えています。
巨大ターミナル・品川駅のすぐそば。首都・東京の食肉流通拠点である芝浦と場・食肉市場は、この消費量の増加と比例する形で発展してきました。
食肉市場センタービル6階「お肉の情報館」展示の「東京食肉市場のあゆみ」に基づいて、昭和から平成にかけての施設の歴史をたどっていきましょう。

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芝浦と場の誕生

埋め立て地に直営の新しいと場を開設

明治から昭和初期に掛けて食肉の需要が増すとともに、私設、公設のと場が都内各地に乱立。しかし、そこから発生する動物の鳴き声による騒音や匂い、解体の際の汚水処理などの衛生問題、そしてと場の仕事に携わる人たちに対する差別問題が起きました。
そのため、各地のと場は、何度も廃止・移転を繰り返さざるを得ませんでした。
こうした問題を解決するために当時の東京市は複数のと場の一本化を図り、1936(昭和11)年、芝浦の埋め立て地に市直営の新しいと場を開設。これが現在ある芝浦と場・食肉市場に発展します。

ビジネス街開発の下地

品川インターシティをはじめ、近代的な高層ビルが立ち並ぶビジネス街といった趣の強い品川駅港南口周辺。駅から徒歩5分程の場所に、どうしてこうした施設があるのか不思議に思う人もいるようです。
しかし、これは話がまったく逆で、もともとこの市場が昔からあって、それを踏まえた上で品川駅港南地区がビジネス街として開発されたのです。

海と鉄道線路によって完全に人家と隔絶

当時の港南地区は、品川駅から長い地下道を潜ってやっと出るという感じの場所で、現在のような華やかさはありませんでした。海と鉄道線路によって完全に人家と隔絶している広大な空き地で、騒音や匂い、汚水処理などの問題を回避できたのです。
また、鉄道の引き込み線があったために、全国から牛やブタを積んで到着した貨車が、そのままここに集結できるという利便性もありました。

公正な取引ができる市場に

ぶ厚いビフテキが金持ちのシンボル

戦時の食糧統制期、戦後の混乱期を経て、1953(昭和28)年、と畜場法が改正施行されると、芝浦と場には枝肉取引所が設置されました。
その後、1950年代半ばにかけては生産者と問屋との直接取引が主体で、価格形成が不透明という指摘があり、これは社会問題としても取り上げられるようになりました。
ちなみにこの頃は高度経済成長の時代と重なっており、ぶ厚いビフテキなどは金持ちのシンボルとして、よくマンガやイラストなどに登場しました。家族みんなで豪華な肉料理を食べられる生活を夢に描いて、多くの日本人は懸命に働いたのです。それほど肉(特に牛肉)は一般庶民にとって、ハレの日にしか口にできない高級食材だったのです。

食肉関連の取引はすべて中央卸売市場法に

肉の値段を吊り上げる商取引習慣を改善するため、1963(昭和38)年、国は東京都に対して食肉市場を開設するよう指導。それを受けて3年後の現在の1966(昭和41)年12月、「東京都中央卸売市場食肉市場」がオープン。以降、食肉関連の取引はすべて中央卸売市場法に基づいて行われるようになりました。

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