多くの「日本初」を生み出した月桂冠の酒造りとは?
寛永14(1637)年。後に月桂冠となる酒屋「笠置屋」は、初代 大倉治右衛門(おおくらじえもん)の手によって京都伏見で創業されました。江戸時代のなかば頃からは、米の不作や飢饉により、米を使う酒造りが冬場に制限されるようになりました。また、酒造りに科学技術が導入されていなかったため、全国の蔵で乳酸菌の混入による酒の腐造が相次いでいました。
一代で事業規模を100倍に。日本の酒造りにおける大倉恒吉の活躍
11代目当主 大倉恒吉(おおくらつねきち)が酒蔵を継いだ明治時代。東京を中心とした人口増加や高度経済成長に伴い、高まる酒の需要に対応するため蔵の数を増やした恒吉は、洋式帳簿への記帳を試行し、経費の管理や投資の効率化を図りました。酒の取引量はみるみる膨れ上がり、恒吉は事業規模を一代で100倍にまで拡大することに成功しました。その背景には、酒造りの品質向上のための科学技術の導入がありました。
日本酒メーカー初の研究所を創設
酒造りにおける技術改良の必要性を痛感していた恒吉は、大蔵省醸造試験所の鹿又親(かのまたちかし)技師から教えを仰ぎ、最新の研究や分析の手法を学びました。そして、明治42(1909)年1月10日、日本酒メーカー初の研究所「大倉酒造研究所」を設立し、酒を腐らせる乳酸菌の抑制、また加熱殺菌の条件を科学的に確立しました。
さらに、明治44(1911)年には、日本で初めての「防腐剤なしの壜詰(びんづめ)酒」を商品化することに成功しました。その後も数々の科学技術を酒造りに導入することにより、月桂冠の酒の品質は飛躍的に向上。伏見の地の酒としての評価しかなかった月桂冠は、一躍、銘酒として全国に知れ渡るようになりました。
職人の熟練技能なくして良い酒は生まれない。最高品質の日本酒とは?
昭和30年代からの高度経済成長期にも、月桂冠は品質第一を旨として、各蔵元の酒造りの最高責任者である杜氏(とうじ)と共に年間雇用の社員が競い合って酒造りに取り組むことで、さらに酒質を向上させました。
「月桂冠の酒造りは、大きな機械を使って日本酒を大量生産しているイメージを持っている方は多いでしょう。しかし、実際には、酒造りに携わる技術者一人ひとりの熟練の感覚抜きには良い酒は造れません」と、田中さんは言います。日本酒造りは、いつでも微生物が相手。技術者は各段階で必ず、モロミの状態を目で見て、麹を手ざわりで確認するのだそうです。また、酒を搾った後も、きき酒により貯蔵の状態や、色の変化を確かめます。
そうして合格した日本酒を商品として出荷します。月桂冠の各蔵の日本酒は昨年、新酒の出来栄えを競い合う全国新酒鑑評会にて、出品した4蔵すべてが金賞を受賞しました。
最高の日本酒は「職人の技」と「膨大なデータ」との間に生まれる
「大吟醸酒から一般酒まで、どのジャンルにおいても最高品質の酒を造ることが当社の理念となっています。そして、当社には、これまであらゆるジャンルの日本酒を造ってきた膨大なデータと共に、代々継承してきた熟練技能の積み重ねがあります」。
月桂冠の研究所では、過去からの熟練醸造技術者のノウハウを法則化することで蓄積してきました。そして、技術者は、日々蓄積された分析データを参考に、現代の酒造りに活かします。このように、月桂冠の目指す最高品質の酒造りには、職人の技はもちろん、研究所の力も欠かせないのだと言います。
日本だけじゃない!世界に広がる日本酒の市場
月桂冠大倉記念館には日々世界中から多くの観光客が訪れます。古くより、酒における最大の市場はアメリカにあったのだそう。月桂冠は、1989年にはアメリカへ酒造りの新規技術を持ち込み、カリフォルニアに現地法人・米国月桂冠を設立しました。現在ではアメリカだけでなく、南米地域やカナダ、欧州にも酒を供給していると言います。
「カリフォルニアにある醸造場では、京都伏見に劣らない、シェラネバダ山脈からの雪解け水を豊富に使用できます」と、田中さん。使用されるカリフォルニア米も、酒造りに適した良質な原料米として利用できるそうです。
立ち上げ当初こそ、品質の点では、日本で製造する日本酒のレベルにはまだ達していなかったそうです。しかし、年々着実にデータと経験を積み上げて、現在では日本のものにも劣らないレベルにまで品質を向上させることに成功しているのだとか。
「アメリカや欧州、アジアなど、世界には様々な味の尺度があり、嗜好も変化していきます。そこへ満足をどう届けていけるかが、月桂冠の今後の課題です」。日本酒を通じて、より世界に日本の魅力を知ってもらうことを願うばかりです。