強い信念と粘り強さを持つ、新渡戸稲造の祖父・新渡戸傳
青森県十和田市には、日本を代表する国際人・新渡戸稲造創設の「私設・新渡戸文庫」を前身とする博物館施設「新渡戸記念館」があります。ここには、稲造の遺品とともに、十和田市のルーツとなった三本木原開拓の資料も展示されていますが、その三本木原発展にかかわった人物こそが、稲造の祖父・新渡戸傳です。
新渡戸傳は寛政5(1793)年、現在の岩手県花巻市に生を受けました。14歳の時からつづった日記「新渡戸傳一生記」によると、傳は当時主流だった漢学(四書五経、七書)や兵法(種子島流砲術、田宮流居合術、戸田流剣術など)の他、柔術や和歌など、さまざまな分野を学んだようです。さらに、「夜12時に寝て、朝6時に起き、ご飯は3杯位」という決まりを長年守り抜いたことからも、強い信念と、粘り強さの持ち主であったといえるでしょう。しかし、この時点で、武家の子息だった傳には、まだ農業との関わりはなかったようです。
三本の木しかない荒地の開拓に取り組む
父が藩の方針に反対したことで、北郡川内村(現・下北郡川内町)へ流された当時27歳の傳は、家族を養うため商人となり、十和田湖周辺の材木を江戸で売り大きな利益を得るようになりました。
この十和田湖周辺にある十和田山の噴火によってできた、火山灰土壌の扇状地帯を三本木地方と呼びます。ここは荒れた平原で、人が住むにはあまり適さない場所でした。遠くからもよく見える三本の「白タモ」の木があったことが地名の由来です。当時この地は、一家族に対し一人分の米しか取れないほど荒れ果てていたとのこと。商人時代、この広大な荒野原である三本木を訪れた傳はいずれこの地を開拓しようと心に決め、商売の余暇に農業の勉強を始めました。
やがて、天保9(1838)年、45歳の時に南部盛岡藩士に戻ることを許された傳は領内の開墾に着手し、その多くに成功。傳は、開拓の名手として知られるようになりました。そして、ついに三本木原開拓に着手することになります。平均寿命が50代だった当時、すでに62歳だった傳にとって、かなり高齢での挑戦でした。
親子三代に引き継がれた開拓の志
荒れ地である三本木原の開拓は一筋縄ではいきませんでした。川が低地にあり水利に乏しい土地での河川の工事には苦労が重なりましたが、傳とその跡を継いだ息子の十次郎により、水路を造ることに成功します。この人工河川は「稲生川」と命名されました。馬の放牧くらいしか使い道がなく、飢饉(ききん)に襲われることの多かった三本木原を、一大農業地帯へと生まれ変わらせることに成功したのです。また、孫の七郎もこの地の開拓に従事したことで、現在の十和田市は農業を主体として発展。米のほかにも、生産量全国トップを誇るニンニクなどの農産物の産地となりました(※)。もし傳の存在がなければ、いまの十和田市はなかったかもしれません。
傳に続き、息子・十次郎、孫の七郎が中心となり、この地の発展に尽力し続けました。傳は明治4(1871)年に78歳で亡くなりますが、傳の背中を見て育った子孫たちの農業への思いがこの地には根付いているのです。
なお、十次郎の三男は三本木原開拓地域で初めて取れた稲にちなみ、「稲之助」と名付けられました。この子どもが後に改名して「稲造」となります。稲造はまさに農業の申し子だったといえるでしょう。
古来より日本は農業が盛んでしたが、山がちな国土ゆえ、人々は荒れた土地を開墾することに命を懸けることが少なくありませんでした。そうした場所で技術を学び、リーダーとして活躍した一人が新渡戸傳。彼の功績は十和田市の新渡戸記念館で知ることができます。機会があれば、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
次回も、日本の農業をリードした人物を紹介します。
※ 十和田にんにく
参考:新渡戸記念館
上記の情報は2018年5月24日現在のものです。