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生産農家は全国7軒、新規就農者が「七島イ」を選んだ理由

生産農家は全国7軒、新規就農者が「七島イ」を選んだ理由

最終更新日:2018年07月19日

「七島イ(しちとうい)」という作物を知っていますか?イグサに似た植物で、「琉球畳」の原料になります。丈夫さから、かつては全国で親しまれていましたが、手作業による負担の多い過酷な農作業などを理由に、生産者が激減。国内唯一の産地となった大分県・国東半島でも、一時は生産農家が5軒にまで減り、消滅の危機に瀕していました。地元有志の尽力により、現在では7軒に増え、復活に向けて前進しています。県外から新規就農した最年少七島イ農家・淵野聡(ふちの・さとし)さんらにお話を伺いながら、七島イの生産現場を追いました。

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「貧乏草」と呼ばれ―産地消滅の危機も

七島イ

半自動織機を操り、七島イの畳表を織る淵野さん。生産できるのは、一日2畳程度

「カシャン、カシャン」。機織り機の音が、規則正しいリズムで、かつて空き家だった小屋に響きます。半自動織機に寄り添い、畳表を織っているのは淵野聡さん(36)です。平行に織るために手で向きを変えながら、長さ1.2メートル程の七島イの原草を差し入れていきます。織り上げた青畳を笑顔で掲げて見せてくれた淵野さんは、全国最年少の七島イ専業農家です。

七島イの畳表や筵(むしろ)は、江戸時代から庶民の暮らしに欠かせない存在として全国へ普及しました。イグサの5~6倍の強度と2倍以上の耐焦性を持ち、使い込むほどにツヤが出るという特性は、一般家庭と相性が良いものでした。1964年の東京オリンピック開催時までは、柔道畳としても使われていたといいます。

七島イ

使い込むと、飴色に変わりツヤが出る。経年変化が楽しめるのも、七島イ畳表の大きな魅力

七島イは、1660年以降にトカラ列島から商人が持ち帰り、別府湾沿岸地域に広まったとされています。耕作面積が狭く雨の少ない環境でもよく育つため、長く国東半島の経済を潤す作物でした。しかし、生育には大量の肥料を要し、作業工程も多く手が掛かるという側面があります。

5月に田んぼに植え付け、伸びた茎が台風で倒れないように杭打ち・網張りをし、7~9月に収穫。刈り取り後、茎を半分に分割し、乾燥します。砂浜や河原などに広げ、家族総出で天日干しをする光景は、かつて国東の風物詩でした。水分を飛ばした後は、根元についている「はかま」を取って保管。仕上げ乾燥を行った後、太さや色にムラがない原草を選別し、畳表に織り上げます。このように古くから七島イ農家は、栽培から製織、出荷までを自ら担ってきました。彼らは農業の「6次産業化」の先駆者だったといえます。しかし、工程が多い割には収入が見合わず、地元では「貧乏草」と揶揄(やゆ)されるようになりました。

密集して生える習性などから作業の機械化が難しく、専業農家でしか栽培できないことを理由に、七島イ農家の数は日本の工業化と反比例するように激減していきます。ピーク時は年間500万畳を出荷し、全国一の生産拠点だった国東半島でも、廃業が相次ぎました。平成初期に全国唯一の産地となった後、2009年には5軒までに減り、産地消滅の危機に直面してしまいます。

しかし、広範囲にわたる農作業にこそ、やり甲斐を見出す生産者もいます。ベテラン生産者の松原正さんは、「作ったあとに、織る。それは、楽しみが二度あるということ」と、七島イ農家の魅力を前向きに語ります。消えかけた灯を復活させようと、松原さんら生産者、畳屋、JA、行政など地元の人々が2010年、新規就農希望者の研修・指導、七島イ工芸士の育成や作品販売を行う「くにさき七島藺振興会」(林浩昭会長)を発足。2013年以降、淵野さんら30~50歳代の3人が相次いで就農し、七島イの生産現場にようやく“春”の兆しが訪れます。

「ローテク」に魅かれる

淵野さんは就農前、三重県のシステム関連企業などに勤めていました。国東市出身の妻・美由紀(みゆき)さんと、「いつかは田舎暮らしがしたいね」と漠然と夢を語り合っていたといいます。美由紀さんの故郷・国東半島は、穏やかな瀬戸内海や伊予灘にし、今年開山1300周年を迎える「六郷満山」など豊かな文化を持っています。佐賀県の内陸育ちで、仏像やお寺に関心がある淵野さんは、「ときめきを覚えた」と振り返ります。

退職を決意し再就職活動に向き合うも、田舎には求人が少なく職探しは難航します。そんな中、たまたま新聞で「くにさき七島藺振興会」が発足することを知り、国東半島でしか作られない七島イに強く惹かれます。
夫婦で振興会や市役所を訪ね、生産農家5人のうち4人が70歳以上という実情を聞いて就農を決意。松原さんの下で修業し、栽培から製織までの一通りをみっちりと学びます。

想像以上に手作業に負う工程が多く、大変さを実感したという淵野さん。乾燥機の出現などで一部は簡易化しましたが、厳しい夏の早朝と夜に収穫し、寒さ厳しい冬に織り上げるという過酷な生産方法は現代でも変わりません。「まさにローテク。でもそれが良かった」と、七島イへの興味は深まるばかりでした。

七島イは地域との懸け橋

淵野さんは一年間の修業期間を終え、自分の水田で栽培を始めます。松原さんから農機具やトラックを借りたり、人手の紹介を受けたりと、師匠が側に居てくれることがとても心強かったといいます。しかし、問題に直面した時は自分で原因を考え、出来るだけ独力で解決できるよう努めてきました。

松原さんは、「研究熱心で努力家。毎年色々と経験しながら前進していますが、よくやっていると思います。特に機織りの腕は素晴らしい。若い仲間が増えるのはとても心強い」と、愛弟子に目を細めます。淵野さんは、「なかなかお褒めの言葉は頂けないのですよ」と、頬を緩めました。

国東産の七島イで作る琉球畳は、近年の「和モダン」インテリアの流行の影響で、年間生産量の5倍にもなる数の注文を主に関東圏から受けるようになりました。国東半島宇佐地域世界農業遺産の重要な産物として注目を浴び、また、国の地理的表示保護制度「GI」に大分県産商品で初めて登録されるなど、ブランディングも順調に進んでいます。しかし、淵野さんが最も魅力に感じるのは、七島イが地元住民の「懐かしい思い出」に繋がっていることだといいます。

「七島イを作っています、と地元の方に自己紹介すると、『懐かしいね、子どもの頃実家で収穫の手伝いをしたよ』とか、『しっと(※)を作りよるの!大変でしょう』などと声を掛けてくれ、七島イを介して初対面でも話が弾みます。七島イのお陰で、地元の人との間合いが縮まっていきました」と、微笑みます。(※地元の人は、七島イを「しっと」と親しみを込めて呼ぶ。)淵野さんの工房で原草の選定作業をしていた杵築市出身の女性は、「とにかく懐かしくて。私は七島イの香りが大好きなんです」と話します。

「七島イは、色んな人の人生の1ページにある作物だからいいんですよね」と、淵野さん。「本当は、七島イを自分一人で作って売ることはできないと思うのです。コミュニティと助け合い、人間関係を築きながら、ここにしかない物の良さを発信していけるのがとても面白いし、やり甲斐に感じます」と、背筋を伸ばします。

山に囲まれた淵野さんの水田に風が通り抜けると、伸び盛りの七島イがキラキラと輝きながら揺れていました。その様は、消えかけた灯を受け取って、力強く一歩を踏み出す青年の姿に重なりました。

【関連リンク】
七島藺工房 倖~sachi~
くにさき七島藺(七島イ)振興会

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