【冨澤剛さん プロフィール】
1973年生まれ。大学の史学科を卒業後、4年間のサラリーマン生活を経て、冨澤ファームの4代目代表に。80アールの畑で年間約30品目の野菜を栽培するほか、収穫体験イベントなどを積極的に受け入れている。三鷹市認定農業者、野菜ソムリエ、江戸東京野菜コンシェルジュなど多数の資格を保有し、短大の非常勤講師も務める。 |
農業のイメージを変えたい
「農地は誰のものか」
──冨澤さんはもともと農家の生まれで、家業の農家を継いだのですね。
はい、農家の4代目です。私は次男で、歴史好きなので教員になろうと思ったこともあったのですが、大学卒業後はサラリーマンになりました。会社勤めを4年して最後はパソコンのサービスマンをしていたのですが、ふとこの仕事を一生続けられるのかなという思いが頭をよぎって、農家を継ぐ決意をしたんです。その頃は農業のイメージを変えたいという思いが強くありましたね。
──農業のどんなイメージを変えたいと思ったのでしょうか?
「大変そう」「地味」「高齢者が担っている」……。ひと昔前はこんなイメージが農業にはありました。特にバブル期は散々な言われようでしたね。土地が高騰して一般の人には手が出せなくなってしまっていて、地価の高騰は農家が土地を売らないからだとか、高い地価の東京で農業をするのはけしからんとか言われたり、「土地は誰のものか」というテレビのドキュメンタリー番組でも市街地にある農地の問題に触れられたりしました。
先祖から預かった農地を守りたい
──農家さんは肩身の狭い思いをされたのですね。
そんな世論の影響もあって、その時代には生産緑地法の改正や税制の見直しも行われ、東京23区と多摩地区のほぼ全域で、どちらかというと市街化を進める方針が取られたのです。東京の農家は、納税のために泣く泣く農地を売るということがこれまでに幾度もあったし、今も続いています。
けれど、私たちからすればこの土地はご先祖から預かっているだけのもの。預かっているからには大事に守っていかなければなりません。自分の代で無くしてお金に変えてしまおうなんて到底思えないんです。
では、農地を守るために何をすればいいか。まずは、世論を変える必要がありました。東京に農地があることの価値を分かってもらうには地域の消費者を満足させる公益性や社会貢献が必要です。私たちの親世代の農家の時代から、そう考えて取り組みを始め、それを私たちが発展させて受け継いできました。
地域社会に農園を開く理由
野菜を地元の人に食べてもらいたい
──ご両親から受け継いだ冨澤ファームの状況と、自身が取り組んできたことについて教えてください。
広さは、以前は100アールありましたが、農地の真ん中を貫くように道路が整備されることになってしまい、現在は80アールほどです。施設と露地で旬の野菜を中心に年間30種類くらいを栽培していて、江戸東京野菜の「寺島ナス」や「内藤トウガラシ」も育てています。
かつては市場出荷が主でしたが、市場に出荷されるとどこに農産物が届いているのか分からないんですね。地元の人にも新鮮な野菜を食べてもらいたいということで、両親の代から庭先販売も始めました。
私が継いだ時点ではまだ半分くらいが市場出荷でしたが、いまはほぼ直接販売です。コインロッカー式の庭先販売と農協の共同直売所、地元スーパーの地場産の農産物コーナー、飲食店、学校給食、それぞれに20%くらいずつバランスよく出荷しています。
──どのように販路開拓をされたのでしょうか?
実は自分で営業をしたことがなくて、お声がけしていただくことが多かったですね。ただ、待っているだけでは声はかからないので無意識にアクションをしていたとは思います。
例えば、学校給食の契約は地元の三鷹市のほか、中野区と新宿区の小中学校にも納品しているのですが、そのきっかけは野菜ソムリエの資格取得。資格が始まって間もない頃に講座を受け、協会のホームページで生産者として紹介されたのが仲介した企業の目に止まりました。
また、最初に直接契約した飲食店は市内にある企業の社員食堂なんですが、農協の共同直売所で野菜を大量に購入している方を見かけて名刺を渡しておいたところ、後日、会社の方からご連絡をいただきました。江戸東京野菜コンシェルジュの資格講座がきっかけで出会った飲食店さんもあります。
農空間を消費者に提供する
──野菜栽培と販売以外にイベントなども行っているそうですね。
最近では特に都市部のお客さんの中に、農的な機会に触れたいという人が増えてきたと感じていて、畑にお招きするようなイベントを僕の代から始めました。例えば大根の収穫体験と豚汁作りをセットにしたイベントなどは家族連れに好評です。
あとは、野菜を納品している神田のバル「東京オーブン」さんの企画で、常連さんを招いた収穫体験とバーベキューのイベントをもう5年くらい続けていて、年々参加者が増えています。農空間の商品化と言っていますが、東京の農家はこういうことがやりやすいですよね。
他にも台湾からの視察を受け入れたり、一定の区画を近くの保育園用に空けていてサツマイモの苗の植え付けから芋掘りまでやってもらったり、あと短大の非常勤講師をしている関係で農業実習をしたり、お声がけいただいたものは無理のない範囲で受け入れています。他にも、地元の子ども食堂に野菜を無償で提供していたり、今後は作業場のキッチンで地域の主婦の方に加工品やお菓子作りをしてもらったりすることも考えています。
東京に農地を残すために
“社会起業農家”でありたい
──さまざまな形で地域に貢献する活動をしているのですね。
私としてはここに土地があって逃げも隠れもできないのならば、地域で楽しく生活したい。そのためには地域の人も巻き込んで、理解してもらった方がいいですよね。東京のような消費者に囲まれた場所で農業をやっていくには地域の方の温かい理解がないとやっていけません。
目標としては、東京の農家として将来に農地を残していくこと。また、農地を残すほかに、個人的には農で人を笑顔にするというのをミッションにしています。農業の価値を高めることにいろいろ取り組んでいき、社会や人に良い影響を与えていきたい。例えるなら“社会起業農家”。そんな農家でありたいと思っています。
イメージの変化、そして新しい法制度
──「人のため」「地域のため」というのは、なかなかできるものではありません。その力はどこから湧いてくるのですか?
エネルギー源になるのは、やはりイメージを変えたいとか悔しい思いをした経験です。ただ、最近では先代から続けてきた地域貢献の取り組みが評価されてきて、イメージが変わってきたのを感じています。昔は「大変ですね」としか言われなかったのが、「作っている野菜を食べてみたい」とか「畑に行ってもいいですか」と声をかけられるようになりました。
──この間に新しい法律もできました。
2015年に都市農業振興基本法、2018年には都市農地貸借法という法律ができました。簡単に言うと、それまでは東京から農地をなくす方向でしたが、これらの法律は東京に農地はあるべきものとして援護してくれるものなんですね。法律を変えなければいけないと、親の世代から30年かけてやってきたことがやっと成し遂げられました。
ここがようやくスタートラインです。これも東京にも畑があってほしいという消費者が増えたおかげなので、僕らは東京の農家を支えてくれる消費者の方が喜ぶことをやり続ける覚悟でいます。