歴史ある農家の息子が、アプリを開発
新宿から郊外に向かう京王線に乗って20分ほどの仙川(せんがわ)駅。そこから徒歩3分の好立地にある伊藤農園は、甲州街道ができたときに先祖が移ってきて農業を始めたという、約400年の歴史のある農家だ。
伊藤彰一さんは父と共にその伊藤農園を営む。大学卒業後、ITベンチャー企業でエンジニアとして5年ほど働いていたが、2016年に退職して就農した。勤務していた会社が大手に吸収合併されることになったことがきっかけだった。「合併後の会社で仕事を続けるよりも自分で新しいことをしたかったので、未練はありませんでした。もともと30歳になったら実家を継ぐつもりでしたし」と話す。
伊藤農園は広さ1ヘクタール。そのうち0.3ヘクタールは貸し農園として運営しており、取材中も平日であるにもかかわらず、ひっきりなしに利用者が訪れていた。
また、伊藤農園本体は地元の学校に給食用の食材を提供するほか、「野菜を売る」以上の価値を生み出すために体験農園なども運営している。
誰もやらないから自分で開発した
自分で農業を始めてすぐ、不便に感じたことが多くあったという。その一つが、農薬の検索についてだった。
「どの薬がどれに使えて、何倍に薄めて、栽培期間中に何回まけるかを農薬を使うたびに調べないといけない。また、使ったらそれを記録しておいて、うっかり余計にまいてしまわないように覚えておくのが大変。うちみたいに狭い畑だと、ナスの横にすぐトマトがあったりして、一緒にまけるのはないかなと探すとなると、一回の作業時間は相当なものでした」
当時すでに栽培管理のアプリなども開発されており、「こんなに不便なんだから、すぐにどこかの会社が良いサービスを開発してくれるだろう」と思って待っていたが、半年待ってもそんなものは現れなかった。
「農業を始めて一番びっくりしたことは、スピードの遅さ。作物が育つのが遅いっていうことではなくて、技術の進歩の遅さにはショックを受けました。僕がいたIT業界では、3年前の技術はもう古い。でも、農業では30年前と同じことをやっている。それはいいことでもあるんだけど、そこに課題があるのに誰も解決しないということでもあるんです」
自分と同じ個人で多品目を作る人を想定
そこで、エンジニア時代に培ったプログラミングの技術でスマホアプリを開発することにした。ターゲットは個人で多品目を作っている農家と決めた。まさしく伊藤さん自身と重なる。
最初からどんなサービスを作りたいかは見えていた。伊藤さんが考えた機能は以下の4つだ。
・農薬の散布の管理ができること
・農薬の検索がすぐにできること
・作業日誌がつけられること
・売上の管理ができること
検索できる農薬は、農林水産消費安全技術センターホームページに登録されている農薬すべて。農薬を使える作物も、ほぼすべてをカバーしている。
2017年に制作に取り掛かってから、8カ月ほどで機能的には完成に至った。しかし、使いやすさはイマイチだった。畑でアプリを使いながら農作業をすることを考え、なるべくシンプルにする必要があったからだ。導線を考え動作量を減らすなど、デザインのブラッシュアップに約半年かかり、「Agrihub」は2018年の9月にリリースとなった。アプリの使用は無料だ。
ユーザーが登録時に入力するのはメールアドレスと畑のある場所の郵便番号だけ。郵便番号を入れるのは、気象データを記録し積算気温を測定するためだ。農家が栽培日誌をどうつけるかということを考えたうえで、必要最小限の情報の入力でアプリの使用を始められるようにした。
農家だからこそ分かる視点でアプリを制作
伊藤さんが一番力を入れたのは記録と連携だ。従来の他社のアプリは、データや履歴をとることを一番重視しているように感じていた。一方伊藤さんは一歩進んで、そのデータをどのように農家の使い勝手の良さにつなげていくかという点に、農家だからこそわかる視点を取り入れた。
例えば、Aという農薬は年2回までしか使えないとしよう。そこに生産者が1回それをまいたという記録をつけると、次に同じ農薬が検索された時に「使える回数はあと1回」と出る。また、成分によっては一緒に使えないものや効果が重なってしまうような場合は、きちんと注意してくれる。これまで農家がノートに付けて見返すことでしか判断できなかったことが、手元のスマホ一台でできるようになった。
問題の本質を考えて改良に取り組む
伊藤さんのもとにはSNSなどを通じて、Agrihubへの喜びの声や改善を望む意見などがよく届く。このユーザーからの声をもとに改善された部分も多くあるという。しかし、意見をそのまま改善につなげることはしない。
「ユーザーの声はとてもありがたく、もっともなことも多い。でも、『ここをこうしたら』という意見はそのままは取り入れません。その前にその困りごとの本質はなんなのか、どうしたらそれが解決するのかじっくり考えて改善策を考えるようにしています」
今後は売り上げ管理機能をもっと充実させていきたいという。今は売り上げや作業時間は記録できるが、栽培にかかった資材などのコストを管理できないため、正確に時間当たりの労働単価が出せていないという。
確かに個人農家は作業効率や作業量を顧みず、ただ野菜を作って売ることに集中してしまい、自分の労働がいくらになっているのかをきちんと把握できていないことが多い。伊藤さん自身も、住宅地の狭い土地で農業を続けていく農家の一人だ。与えられた条件の中で効率的に農業をするために、Agrihubは生まれた。
伊藤さんと同じようにそれほど広くない土地で効率よく作業をして農業で食べていくために、このAgrihubは一つの解決策になるかもしれない。