農業体験を阻む、「トイレがない」という現実
千葉県我孫子市、最寄り駅から徒歩10分ほどの住宅街。国道沿いの塀から中をのぞくと、畑が広がっていました。香取岳彦(かとり・たけひこ)さんが営む農園「ベジLIFE‼」です。
8反ほどの畑のそばにある駐車場のわきに作業場と並んで小さくて真新しい建物が立っていました。これが今回の主役のトイレです。
取さんは5年ほど前までは普通のサラリーマン。祖父母は農家でしたが、両親は農業に携わっておらず、香取さん自身も農家で育ったというわけではありません。しかし「食べるものが体を作る」という意識が強かったことから農業を志し、祖父母の畑がある我孫子市で就農。現在は馬ふんの堆肥(たいひ)を使用するなど土にこだわった農薬を使わない農業を実践し、インターネットで野菜を消費者に直接販売しています。また、農業の魅力を伝えたいと農業体験ができる観光農園も運営、保育園児から大人まで、この4年でのべ1500人が農園を訪れています。
しかし、香取さんは観光農園来園客の受け入れに課題を感じていました。ベジLIFE‼には、トイレがなかったのです。
トイレがないから畑に来られない人がいる
ベジLIFE‼には香取さんと世代の近い固定ファンと呼べる人が多く、家族連れで畑を訪れます。開園当初のトイレのないころを知る福島沙織さんは「ここが大好きだから、よく来ています。私たち大人はトイレがないことを理解して、来る前に済ませて来られるんですが、子供はそうもいかなくて」と、トイレの必要性を感じていたと言います。
また、定期的に来園する20名程度の子供の団体も。来園前に食事とトイレを済ませてきてくれるため、頻繁にトイレを必要とすることはありませんでしたが、それでも1人か2人はトイレに行きたいという子どもがいました。
そのため、香取さんは国道をはさんで向かいにあるコンビニエンスストアに、トイレを使わせてもらえるように頼み、許可を得ていたものの、やはり完全な課題解決にはなりませんでした。
「頻繁に車が通る国道を子供がわたるのは危険です。幼稚園や特別支援学校からも『農業体験に来たい』とお問い合わせいただいたのですが、トイレがないことを理由に、来園を断念せざるを得ませんでした。老若男女、様々な方に農業を楽しんでいただける農園にしたいと思っているのに、それを阻んでいたのはトイレだったのです」
トイレ設置の難関
そこで畑にトイレを設置しようと、香取さんは周囲にトイレについての意見を聞き、どんな形態のトイレを設置するかを検討するところから開始しました。
ベジLIFE‼があるのは住宅街ではありますが、下水道がまだ整備されていない地域。水洗トイレを設置するには浄化槽が必要です。しかし、独自で設置するには金銭的な負担が大きいという現実があります。
場所を選ばずに安価で設置できるのは、建設現場などでもよく見かける仮設のトイレですが、この案はすぐになくなったそう。
「トイレで重視したのは『かわいさ』。農業のイメージアップを図るためにもそこは譲れませんでした。そして清潔であること。虫やニオイの問題、メンテナンスのしやすさなどを考えても、皆さんに快適に使っていただけるものでないと」と香取さんの妻の郁(いく)さんは言います。
そこで、浄化槽は畑の近くにある香取さんの両親の家のものを使わせてもらうことにし、土足のまま使え、男女別の個室トイレと洗面台のある常設型のトイレを作ることになりました。配管の都合もあり畑から少し離れてしまいますが、道路を横断する必要がなく、誰もが安全で快適に使うことができるトイレです。
ファンが中心となった資金集め
ベジLIFE‼の開園のころから定期的に通っている廣田好美さんが中心となり、2019年の夏に資金を集めるためのクラウドファンディングを開始しました。目標金額は200万円です。
ベジLIFE‼には廣田さんや福島さんのようなファンが非常に多く、100人弱の方が支援をよせ、中には数十万円の寄付もあり、ほどなくプロジェクトは成立しました。
200万円は大金ですが、イメージ通りに施工を依頼すると予算オーバーになってしまいます。そこで、なるべく節約し、より多くの設備を整えるための工夫も欠かせませんでした。「便器や洗浄機付き便座、洗面台などはインターネットで直接購入して、内装など自分たちでできることはやりました。お願いしていた地元の工務店さんも、快く『それでいいよ』と言ってくださって、助かりました」(郁さん)
工務店には建物本体の建設と水道の配管を、電気の配線などは電気工事の資格を持つ郁さんの父親に依頼することでコストを削減し、トイレは2019年の秋に完成しました。
トイレ設置の効果は「農業を魅力的にすること」
完成後、トイレのお披露目会を開き、クラウドファンディングで支援をした多くの人が参加し、トイレの完成を喜びました。
福島さんは、「ここに来るときの安心感が増しました。子供のトイレの心配をしなくていいので、気が楽です。私はなんだかもったいなくて、まだトイレを使えずにいるんですけど」とトイレがあることでさらに農園に来やすくなったとのこと。
また、香取さんは「ここで働くスタッフのためにも環境の改善につながってよかったです。援農(農業ボランティア)で来てくれる人、特に女性が喜んでくれています」と語ります。
今後、これまでトイレがないせいで受け入れを断念せざるを得なかった保育園や特別支援学校などにもトイレ設置の報告をする予定です。「年間学習のプログラムの中に農業体験を入れてもらいたいのです。畑ではいろんなことが学べますし、交流も深まります。そして何より、農業を魅力的だと思ってほしい。子どもたちの将来のなりたい職業ランキングに『農業』を入れることが僕の目標ですから」と、教育への効果にも期待を込めます。
農業を魅力的にするためには、それを取り巻く環境の整備も必要。その象徴的なものがトイレなのかもしれません。子供に農業体験をさせたいと願う保護者や学校関係者にとって、安心と安全が確保された観光農園の存在はきっと魅力的に映るでしょう。もちろん、そこで農業を知る子供たちにとっても、農業をポジティブにとらえるきっかけにつながると感じた取材でした。