資本主義社会でもがいた金融機関時代
――農業をはじめる前は、長く金融機関に勤めていたんですよね。どんな生活だったんですか?
大学を卒業してから国内のメガバンクに14年、外資系金融機関で12年、セールスとしてがむしゃらに働いてきました。朝5時半に家を出て、満員電車で通勤し、帰りは終電……、という生活のルーティンでした。
――26年も! その間、日本の金融機関はいろいろと変革の時期で大変でしたよね。
はい。自分が金融機関で働き始めた頃、ちょうど日本ではバブルがはじけ、十数行あった都市銀行が3つのメガバンクに集約される金融再編時代でした。その後2008年のリーマンショックに端を発した世界金融危機もあり、最悪な時期を駆け抜けてきた感覚です。毎日毎日ノルマなどの数字に追われ、身も心も本当にボロボロでした。
――他の仕事への転職を考えていたんですか?
ええ。そのころ、長男が成人したのをきっかけに「経済価値を最優先にしてきた猛烈サラリーマンも、そろそろこの辺でいいかなぁ」と思いはじめ、第二の人生をどのような分野に進むべきか真剣に悩んでいました。具体的に興味ある分野のイメージはありませんでしたが、できれば社会や誰かの為になる事に携わりたいとだけ考えていたんです。そうしたら、自分と同じく金融機関からの転身を考えている友人から「農業とか興味ないですか?」と誘われて、コトモファーム(体験農園)の農園見学に参加しました。
これまでとは違う価値観と時間の流れが存在する畑へ
――最初にうちの農園(コトモファーム)を訪れたときには、農業には興味がなかったとか。
農業なんてホント興味ないし、野菜なんてスーパーで売られているのしか見たこともなく、土いじりすらしたこともなかったので、正直まったく乗り気じゃありませんでした。
――今とはずいぶんギャップがありますが……。実際、農園に来てみてどうでしたか?
初めて参加したのは天気の良い日曜日で、講師だった小島さん(筆者)が、野菜作り講習で野菜の植え付けをゆる~く説明して、会員の方たちが汗をかきながら笑顔で農作業しているところを見て、「あれ、なんだか時間の流れ方がこれまでの自分とは全然違うなぁ。そういえば笑顔で仕事をしたことなんてあったっけ?」と感じ、友人につられる形でコトモファームで体験農園を始めることになったんです。
――それから日置さんが楽しそうに作業をしている様子を私も見ていましたよ。
はい、本当に農作業が楽しくて。天地返し(※)や畝作りで手の皮がむけ全身筋肉痛になりながらも心地よい汗を流し、種や苗を植えると「はやく育ってくれないかなぁ」とワクワクが止まりませんでした。気がつくと畑に毎日通うようになっていました。一日でそんなに成長するわけがないのに(笑)。
これまでの人生で農業や野菜作りにまったく興味がなかった分、新しい発見が毎日あって「ニンジンの芽は雑草みたいだな、ニンニクは一かけら植えるだけで丸いかたまりに成長するんだ、ジャガイモは1コの種イモから数十個も収穫できるのか」とどんどん夢中になり、野菜作りの魅力に引き込まれ畑に魅了されていきました。
※ 作物が根を伸ばしていた深さまでの土を、その下にある土と入れ替えること。養分バランスや土の硬さを改善するために行う。
今の社会になじめるかは誰もが紙一重。こんな時代だからこそ「農業」
――畑で栽培することの楽しさ以外の部分で、魅力を感じた点はありますか?
農業、そして野菜作りには人を元気にして、自信を取り戻し、社会復帰のきっかけにもなり得るという不思議な魔力があると小島さんに教えていただき、非常に共感しました。確かに振り返ってみると、サラリーマン時代に身も心もボロボロだった自分自身が、コトモファームで野菜作りを始めるようになってからは家族に「お父さん、畑に行くようになって明るくなったね」とか「パパ、最近は楽しそうで生き生きしてるね」と言われるようになっていました。
畑に通ううち、小島さんから農業を通じた就労支援プログラム「農スクール」について話を聞いて、興味を持つようになりました。
――農業自体への興味から、農業のもたらす効果の方に視点が変わったんですね。
農スクールでは、生活困窮者や元引きこもりの方が農業を通じて生きるための力を取り戻しています。彼らはたまたま今の社会になじめなかった人です。今の社会に適応できるかどうかは本当に紙一重で、自分自身も含め誰でもささいなきっかけで病気を患ったり引きこもったりする可能性があるのではないか。そして社会復帰する過程を経験できるという事は、これから生きていく上でとても大切ではないかと強く感じていました。農スクールの活動は実は誰にとっても身近なものなんじゃないのかと思うようになり、それで農スクールのお手伝いをしたいと思うようになりました。
就農支援をする仕事へ転身
――農業にまったく興味がないところから、農業を通じての就労支援の仕事を目指すことになるなんて、大変でしたよね。
はい。ですから、農スクールのお手伝いをするからには、もっと本格的に農業についてのスキルを身につけなくてはと考えて「コトモ上級者コース」を受講しました。
上級者コースの同期の受講生は、農業、食、自給自足に興味がある方の他にも、生活困窮者のサポートをしている団体のスタッフの方が農業と福祉を進めるため参加されていたり、医師の方が医療と農業の連携の可能性を探って参加されていたりしました。
資本主義社会の中で効率的に経済価値を得ることを優先した働き方でなく、自然と触れたり、困った人をサポートしていくような事業や働き方があるんだなと学びました。普段接さない方と接し視野を広げる場にもなったこの体験が、現在、農福連携の現場で仕事をする上で自分の助けとなっています。
――そんな日置さんの学ぶ姿勢を見ていて、私も一緒に働けたらいいなと思うようになりました。日置さんは、サラリーマンとしての転職経験や管理職経験もあって、「働く側の立場」だけでなく、会社や農園が働く人に何を求めて採用するのかという視点も持っていましたから。
ありがとうございます。今は、コトモファームのスタッフとして野菜作りやお客様対応をしながら、農スクールでも受講生が自分に合った就職先や働き方を模索することをお手伝いしたりと、前職での経験も生かせる形で働くことができて、とても充実しています。
――今後の展望を聞かせてください。
私は農業と出会って、ものの見方や考え方、価値観が大きく変わりました。野菜作りを体験するようになって、経済には変えられない自然の価値、食の大切さを生まれて初めて知りました。自分が作った野菜が食卓に上がるので、食事も楽しくなりました。また、人間は経済成長を求めるためだけに存在しているわけじゃない……そんな思いが心からあふれるようになりました。そして「農業」で人は立ち直り、自信や笑顔を取り戻せることも実感しました。このような「農業」が持つ力を生かし、また、これまでサラリーマンとして働いてきた経験を生かして、現代社会で働きづらさを抱える方と農業界との雇用をつなぐ形態での「農福連携」に取り組んでいければと思います。
私自身、農業との出会いはとても偶然でしたが、今後も「人が生きていくために必要不可欠な『食』を生産すること」に関わり続け、そして、かつての自分が畑で笑顔を取り戻せたように、現在、仕事や人間関係・健康などで悩んでいる方などが足を運びやすい農園を作っていければと強く思っています。