リアリティにこだわり臨場感を演出
乳牛を飼育する、とある家族経営の牧場。
ニット帽がトレードマークの若い酪農家は、いつものように牛舎の掃除に精を出す。少し寝不足なのが気がかりだ。牛舎は牛が自由に歩き回れるフリーストール形式で、牛用のベッドが1頭ごとに金属のパイプで簡易的に仕切られている。男性は次の作業の段取りを考えながら、シャベルを使ってストール内のベッドメイキングを続ける。
すると突然、興奮した牛が暴れ出す。衝撃で男性は転倒、パイプに頭を打ちつけて流血してしまった。「まいったなぁ…」。血の付いた手のひらを見つめて呟いたそのとき、牛は荒々しくひと鳴きし、力任せに男性に体当たりしてきた。男性に逃げ場を与えることなく、2回、3回……と突進を続ける牛。こちらにも激突の衝撃が伝わってくる――。
これは、畜産現場で発生しうる事故をVRで体感する、研修用動画の一場面だ。
農林水産省が企画し、2021年6月に配信を開始。畜産業向けITサービスなどを提供するNTTテクノクロスが、研修用VRコンテンツ制作の実績があるNTTラーニングシステムズと共同で手掛けた。
頭を上下左右に動かしてみると、視野角が250度まで広がるため、まるでその場にいるかのような臨場感が味わえる。近づいてくる牛を避けようと思わず体を動かしたり、「わっ」と声を上げたりしてしまう。
同社のデジタルツイン事業部理事・副事業部長の櫻井義人(さくらい・よしと)さんは、「現場を知る生産者の方に違和感がないよう、リアリティにこだわった」という。現場からアドバイスをもらいながら、福島県にある農水省管轄の家畜改良センターで撮影を行った。
畜産のほかにも水産業や林業の現場向けなど、4つの業界に関する映像計6つを制作した。農水省大臣官房政策課の今井彰子(いまい・あきこ)さんは、「畜産の担当職員が『畜産動画の牛の毛の質感が予想以上に良かった』と話していました。どの映像も事故の状況を想定したリアリティのある映像に仕上がっていると思います」と太鼓判を押す。
ショックで正しい作業手順を定着
特筆すべきは視聴の手軽さだ。専用のアプリをダウンロードしたスマートフォンをVRゴーグルにはめて再生、頭に装着すれば3D映像が簡単に視聴できる。ゴーグルは家電量販店などで、2000~3000円程で入手できる。最近は100円ショップでも販売されているようだ。
2D映像にはなるが、ゴーグルやアプリなしでも動画の視聴は可能。これでも充分恐怖は伝わる。私事だが事前にYouTubeから視聴した筆者は、自ら取材時にVRを体験させて欲しいと申し出ながらも、前夜まで憂鬱だった(特に、丸のこに巻き込まれる林業の事故映像が痛ましい)。しかし臨場感のある映像にショックを与えられたからこそ、後半に流れる事故予防のための正しい手順説明がしっかりと記憶に植え付けられた。暴れる危険のある牛には目印をつけておく、ヘルメットなど保護具は着用するといった、現場で共有して習慣化すべき具体的な対策が学べる。
小規模農家、コロナ禍での活用も意識
農水省の調査によると、農作業事故による死亡者は調査を開始した1971年で364人、2019年は281人に上った。農業就業人口の減少に伴い減少傾向にはあるが、就業人口10万人当たりの死亡者数は建設業など他産業よりも大幅に多く、交通事故による死亡者数をも上回る。
農業現場の改善が遅れていることの背景には、家族経営の農家が多く、事故が個人の責任とされてきたことなどがある。農業の法人化が進む今、他産業と同水準の対策が求められるはずだ。今井さんは、「事故は自分にも起こり得ることとして捉え、生産者自身でできる作業安全対策にしっかり取り組み、行動を変えていくことが大切です。身近なシチュエーションでの事故事例を見ていただくことで、事故の発生を自分ごととして捉えてもらうきっかけになれば」と話す。
コロナ禍により集合型の研修の開催が難しい、また小規模経営のために大々的な教育研修は行えないという生産者にも取り入れやすい。同事業部第二ビジネスユニットマネージャーの坂本敏哉(さかもと・としや)さんによると、「技能実習生として来日している外国人スタッフにも、映像を通すことで作業の注意点を伝えやすい」というメリットもある。
坂本さんは、「座学研修と実地ですべき対応のギャップは生まれがち。よりリアルな3D教材を通して事故の怖さを体感頂き、予防の重要性を再認識して作業安全に活かしてもらえれば」と効果を期待する。
アプリのダウンロード用リンクや詳細は、下記ページから確認できる。不慮の事故から命を守るための一歩として、すぐにでも試してみて頂きたい。