微生物が元気な場所で、牛も人も元気になる
ナチュラルチーズを作るには、原料となる乳はもちろんだが、乳を発酵させる微生物やさまざまな作業をする人の働きは欠かせない。そのすべてを大切にしてチーズを作った結果、日本国内のみならずヨーロッパのチーズのコンテストで受賞をするようになった牧場がある。北海道の新得町にある、農事組合法人共働学舎新得農場だ。ここでは60頭のブラウンスイス牛と60人余りの人々が、“この土地ならではの微生物”とともに暮らしている。
新得農場では、人が住む家も牛舎もチーズ工房も、すべて木造にこだわっている。それは「微生物が生きやすいように」するためだという。さらにその微生物とともに生きる暮らしが、人にも良い影響を与えるという。「ここに来ると牛も人も、みんな元気になっちゃうんだよね」と新得農場代表の宮嶋望(みやじま・のぞむ)さんは満面の笑顔で話す。
新得農場は、多様な人々を受け入れる場所としても知られる。そこにやってくるのは、さまざまな原因で心身の調子を崩した人、障害のある人など生きづらさを抱える人たちだ。
人も微生物も協力すれば、おいしいものができる
共働学舎は1974年、宮嶋さんの父である眞一郎(しんいちろう)さんが心身の障害など生きづらさを抱える人々と共同生活をする場として長野県に設立した。あらゆる人々を受け入れ、共に農業生産や工芸品製作などを行いながら皆で経済的自立をめざす「自労自活」を理念に掲げる。新得農場は新得町に誘致される形で、ちょうどアメリカでの酪農留学から帰ってきたばかりの宮嶋さんら6人と6頭の牛で発足した。
共働学舎の理念に従って、宮嶋さんは「ここに来たい」という人はすべて受け入れていたため、あっという間に仲間が増えた。みんなが暮らせるだけの収入を得なければと、宮嶋さんは必死で働くことに。さらに自分が仕事の指示を与えなければ誰も何もできないと、指示出しにも忙しかったという。
そんな暮らしが4年ほど続いたある日、とうとう宮嶋さんは倒れてしまった。10日ほど高熱が続く中、自分が世話をしなければ牛が死んでしまうかもと考えていたという。しかし熱が下がった朝、牛舎に行ってみると、少し乳房炎になっている牛はいたものの、一頭も死んではいなかった。
その日の朝食の後、宮嶋さんはメンバーに「今日、君は何をするの?」と聞いてみた。すると一人一人が、搾乳をする、牛舎の掃除をする、畑仕事をするなど、その日に何をするかを話した。「じゃあ、それでお願い」と仕事を任せると、ちゃんとやってくれたそうだ。「そこで僕は気づいたんだよね。『この人たちはもう自分が何をすればいいかわかってる』って」
それ以来、毎朝メンバーが自分でその日にやることを申告することが習慣となった。もちろん、宮嶋さんも申告するメンバーの一人だ。ここでは誰かが“世話をする”とか“世話される”とかの区別はないからだ。
「僕は5年前、脳血栓で倒れちゃって、今は右半身がうまく動かないんだよね。口ばっかり達者で、風呂掃除ぐらいしかできない(笑)。ここではそんな風にみんなそれぞれ違う障害があって、それぞれ得意なことが違う。それを組み合わせて協力さえできたら、好ましい集団になるよ」(宮嶋さん)
“それぞれの違い”の相乗効果は、微生物も一緒で、大切なのは「人も微生物も持っている能力をちゃんと生かせる環境を作ってやること」なのだと宮嶋さんは語る。「うちの最終商品はチーズで、それが世間で“おいしい”と言ってもらって売れている。その土壌や微生物がどういう状態だとチーズがおいしくなるのか、作る人間はちゃんとわかってないといけない。それが面白いよ」と言う。
土地ならではのチーズを作る
日本のナチュラルチーズ作りは、ヨーロッパの技術を取り入れたものが多い。宮嶋さん自身のチーズ作りの師匠も、フランスでAOCチーズ協会の会長を27年も務めたジャン・ユベールさんだ。また、何度もヨーロッパに足を運び、現地のチーズ作りを学んだ。
宮嶋さんは1990年からユベールさんを毎年招き、日本中からチーズ関係者を集め、ナチュラルチーズサミット in 十勝を開催した。ユベールさんはアメリカ型の大量生産ではなく、それぞれの産地の文化を反映した、品質重視の付加価値の高いチーズ作りについて語ったという。
それは原産地呼称保護制度に関するものだった。ヨーロッパのチーズやワインには、特定の地域で生まれ、その製法や特徴が維持されてきたものが多くある。フランスでは1935年にAOC(Appellation d’Origine Controlee)という原産地統制呼称制度が制定され、伝統のチーズの味を守ってきた。つまり、日本で作るチーズは日本独自の文化に根差したものでなければならないということなのだと、宮嶋さんはユベールさんから教わったのだ。
そこで宮嶋さんは、農場に生えていた桜で香り付けした独自のソフトタイプのチーズを開発した。名付けて「さくら」。このチーズは、2003年にフランスで開催された「第2回山のチーズオリンピック」で銀メダル、翌年スイスで行われた第3回では金賞を受賞し、以来国内外で多数の賞を受賞している。もちろん、さくらだけでなくほかの多くの新得農場で生まれたチーズも同様に高い評価を受けている。
そして今、宮嶋さんは新たに日本独自の乳酸菌でチーズを作ろうとしている。日本国内のチーズ工房は、ヨーロッパなどから輸入した乳酸菌を使っているところが多いが、新得農場では国産のものに置き換えつつあるのだという。「いきなり変えてしまうと味も変わってお客さんがびっくりしちゃうから、ちょっとずつ移行してる。もうすぐ全部置き換わるかな」
日本には独自の発酵食品の文化があり、そのおいしさが和食を通じて世界中に広まっている今、「うまみ」のある日本のチーズは世界で人気なのだと宮嶋さんは言う。現在、新得農場のチーズのラインアップには、さくら以外にも「雪」や「笹ゆき」といった日本語由来の名前のものや「レラ・ヘ・ミンタル」といったアイヌ語由来の名前のものが並ぶ。
その土地から生まれた乳でチーズを作る
今、新得農場で飼っている牛はすべてブラウンスイス牛だ。ブラウンスイスにした理由は2つ。ホルスタインに比べて乳のたんぱく分が高く、同じ乳量からできるチーズの量が多いから。そして、斜面の多い新得の地形に合っているからでもある。「ブラウンスイスはスイスの山岳地帯の牛だから、足腰がしっかりしていて、新得で放牧しても大丈夫。しかも、チーズにした時の歩留まりもいいから、経費も節約できる」と宮嶋さん。
さらに傾斜を利用して、牛舎からチーズ工房までポンプを使わずに乳を送ることができたのも、良かった。実はこれは宮嶋さんのチーズの師匠であるジャン・ユベールさんの「乳を運ぶな」という教えに従ったもの。ポンプで圧力をかけたり空気を混ぜたりすれば乳質が下がり、結果的にチーズの味にも影響するからだ。
だが、スイス原産の品種の牛の乳を使ったからといって、スイスの味になるわけではない。食べる草も飲む水も新得のもの、冬場に与える濃厚飼料も国産のものを与えている。そうすれば、牛はおのずとその土地を反映した乳を出し、そこからその土地ならではのチーズができる。
新得農場の木製の牛舎はほとんど悪臭がしない。それも微生物と牛舎の土の下に埋めた炭の働きによるものだ。「牛も人も微生物もみんな有機物で炭素からできている。僕ら炭素系の生物が有利になるような、いい循環が流れる環境を作っているだけなんだよね」(宮嶋さん)
そして、牛舎で出た牛のふん尿も堆肥舎に積んでおいて、たまに誰かがかき混ぜれば、微生物が働いて良い堆肥になる。それをまいた畑でまた良い牧草が生えるという循環も成り立っている。こうした仕組みは飼料価格の高騰といった外部要因による打撃も少なく、経営の安定にもつながっている。
働くことが支える暮らしと誇り
世界的な賞をとれるチーズを作ることは、新得農場で暮らす仲間たちにとっても大切なことだ。評価が高まることで新得農場が認知され、チーズが売れ、自活することができるからだ。そうやってチーズを通して社会とつながることで、自信を取り戻して社会に戻っていく人も多い。
一方で、宮嶋さんはメンバー全てが常に貢献することを求めてはいないし、チーズ作りのために一致団結する必要もないと言う。「ちょっと鈍くてもいい。『今日は休みます』と言ってもいい。『風呂たきします』と言いながら、たまに居眠りしていたっていい」。生産に寄与しないことが、社会にとって存在価値のないこととイコールではないのだ。彼らの存在自体を宮嶋さんはそのまま受け入れ、認めている。
新得農場は福祉制度による交付金等は受け取っていない。農場で暮らす人々が個人として障害年金を受け取っている場合はあるが、それは彼らのものであって、農場の収入とは関係がない。
宮嶋さんは「国が行う従来の福祉制度に合わせることはしない」ことにこだわる。新得農場にはどうしても多様な人が集まってしまうし、誰かが「世話をする」側だけになることも世話をされる側だけになることもないからだ。そこで生まれるのは、自分のできることでほかのだれかを補い協力しながら、働き、暮らせる「心地よい環境」なのだと宮嶋さんは言う。
「みんな、チャンスさえあればいい仕事するよ。ちょっと時間はかかるけどね。みんな社会人になるチャンスがあるんだ」
微生物の複雑な組み合わせで、深みのあるおいしいチーズができると宮嶋さんは教えてくれた。それと同じで、多様な人々が暮らす農場も社会も、きっとおいしい関係性で満ちたものになるに違いない。
取材協力・画像提供:共働学舎新得農場