30年進まなかった肥料利用
下水汚泥の農業での利用について、30年以上研究してきた人が居る。東京農業大学名誉教授の後藤逸男(ごとう・いつお)さんだ。
取材に応じてくれた研究室の白い棚には、下水汚泥を原料にした肥料のサンプル入りの瓶が詰め込まれている。脱水汚泥を単に乾燥させたもの、発酵させた堆肥、燃やした灰を粒状の肥料に成形したもの……。こうした肥料が化学肥料と遜色なく効くことを、後藤さんは研究で明らかにしてきた。
にもかかわらず、下水汚泥の肥料利用は、遅々として進んでこなかった。後藤さんは「もう20年近く前から言ってるんだけど、なかなか実現しない」と不満顔だ。
「東京都も昔は堆肥にしてたんだけど、農地が減って使う人が居なくなっちゃったんで、やむなく燃やす方向に切り替えたんです。かつては、ほとんどの自治体で堆肥化を実施していたけれど、製造するプラントが老朽化しちゃって、やめたところが結構ある」
埼玉県、神奈川県もそうだ。下水汚泥を肥料にするのをやめて、焼却に切り替えて久しい。
下水汚泥を肥料として優先的に使う国の方針について、後藤さんは歓迎しつつも、遅きに失した感があると指摘する。
「国交省の下水道部長が、肥料利用を最優先しなさいっていう号令を発したでしょ。だけど、やろうと思っても、プラントが老朽化してるから設備を更新しなきゃいけない。設備更新はすごく費用が掛かるんで、なかなか難しい」
前途は多難である。
政令指定都市の中では珍しく肥料にしていた札幌市も、まさにこの理由から、2013年に堆肥製造をやめてしまった。下水汚泥を発酵させて作った堆肥を1984年から「札幌コンポスト」として農家やゴルフ場に販売していた。ところが工場が老朽化し、改修に約90億円掛かるとの試算が出て、継続を断念してしまう。バブル崩壊で周辺のゴルフ場が倒産し、肥料の需要が減ったことも影響した。
そんな同市は、国の動きを受けて、再び肥料を製造できないか検討している。民間の事業者に生産を委託することになるかもしれない。こうした堆肥の生産の委託は、埼玉県も検討している。自治体が肥料の生産に乗り出すのと並行して、民間へのアウトソーシングも進みそうだ。
効きの悪さと重金属が大幅に改善
プラントの老朽化の問題が深刻になる一方、時間が解決した課題もある。一つは下水汚泥を使った肥料のリン酸の効きが良くなってきたこと。もう一つは、肥料に含まれる重金属が減っていること。
肥料の効きには、下水処理で使う薬剤の変化が関係しているとみられる。「凝集剤」といって、汚泥を沈殿させる働きを持つ。代表的なのが、「ポリ塩化アルミニウム(PAC)」だ。
「今から30年くらい前に下水汚泥を使った栽培試験をした当時は、下水汚泥に含まれるリン酸は効かなかった。PACのようなアルミニウムを含んだ凝集剤をたくさん入れていたので、アルミニウムとリン酸が結び付いてしまっていた」(後藤さん)
その結果、作物に吸収されにくくなり、PACを使って処理した下水汚泥は、リン酸肥料としての用を成しにくかった。しかし、最近ではPACに替わってポリ鉄という鉄剤や高分子凝集剤を添加する浄化センターが増えてきて、汚泥肥料の特性が変化してきた。最近、後藤さんが行った研究では、4種類の汚泥肥料で化学肥料並にリン酸が効くことが確認されたという。
もう一つの重金属について、後藤さんはこう話す。
「下水汚泥っていうと、固定観念として、重金属にすぐ結び付いちゃうんですね。でも現実は、研究を始めた30年前と違って、重金属の含有率がすごく低下しているから」
下水には工場排水も流入することがあり、以前は重金属含有率が高かった。現在では排出源であるメッキ工場などの段階で、重金属が取り除かれるようになってきている。国がこうした取組みをする事業者に対して、税務上の優遇制度を設けたことが功を奏したとされる。国交省が2023年に実施した分析調査によると、日本全国の下水処理場の95%で重金属の含有が基準を下回っていた。
肥料業界が変化に尻込み
下水汚泥の肥料化は、後藤さんをはじめとする研究者や自治体、民間の事業者らによって研究されてきた。技術的には可能なのに、現実の製造量はごく限られている。後藤さんは「肥料業界は、下水汚泥とか家畜糞尿を原料として導入することを嫌ってたんですよ」と振り返る。
「原料を輸入して、国内の肥料工場で加工してというシステムができてたわけじゃないですか。最近では、海外で作った肥料そのものを輸入しているわけで、新たに国内の産業廃棄物とも言われてきた原料を使うとなると、それが乱れちゃうでしょ」
業界として変化に尻込みしてきたわけだ。更に、「汚泥」という名称と下水汚泥ならではの、臭いの問題もあった。
「肥料メーカーっていうのは、特にこういう臭くなりやすいものは、導入にあまり積極的じゃなかったんですよ。汚泥を肥料にしていこうという気運が高まったのは、ここ数年のこと。岸田前首相が鶴の一声を発してからですよ」(後藤さん)
2022年9月に開かれた政府の食料安定供給・農林水産業基盤強化本部の会合で、岸田首相(当時)は野村哲郎農林水産大臣(同)に対し、次のように指示した。
「下水道事業を所管する国土交通省等と連携して、下水汚泥・堆肥等の未利用資源の利用拡大により、グリーン化を推進しつつ、肥料の国産化・安定供給を図ること」

各地で作られた発酵汚泥肥料。いわゆる堆肥化は下水汚泥の最も一般的な肥料化の手段。微生物の力を借りるので、製造過程で外部からエネルギーを加える必要が少ない
鶴の一声が生んだ新たな肥料
鶴の一声は、家畜ふん尿や下水汚泥、食品廃棄物などの国内産肥料資源を取り巻く環境を一変させた。もともと下水道を所管する国交省は、肥料化に積極的だった。農水省が肥料化に乗り気でなかった分、国交省が孤軍奮闘している感があった。ただ、農業に詳しくないため、頑張る割にあまり現場に普及しないという悲しい状況にあったのだ。
そんなところに首相の指示が下った。農水省も、重い腰を上げて肥料としての利用を後押しすることになる。汚泥を原料とする肥料を流通しやすくするため、2023年10月、新しい肥料の規格「菌体りん酸肥料」を作ったのだ。
下水汚泥を原料とする既存の規格「汚泥肥料」では、他の肥料と混合して販売することができなかった。更に「汚泥」の字面が悪く、敬遠されやすいという悩みもあった。
新たにできた菌体りん酸肥料はこれまでの課題を解消し得ると期待されている。成分の含有量が保証されていて、肥料の原料として混合できるし、これを原料に肥料を作る場合、汚泥の表記が消えることになる。
農水省が肥料化を推し進める動きは、生産資材対策室に取材した下記の記事で紹介している。
燃焼灰より堆肥、堆肥より乾燥が養分豊富
下水汚泥を使った肥料と一口に言っても、種類はさまざまある。本稿で取り上げてきた、発酵させて堆肥にする方法の他、下水汚泥を乾燥させて肥料にする方法もある。
「乾燥できれば、ダイレクトに効く肥料になるから一番良いですよね」と後藤さん。堆肥にすると、その過程でアンモニアが揮発し、下水汚泥に含まれる窒素分の多くが抜けてしまう。その点、乾燥であれば窒素とリン酸を豊富に含む肥料ができる。

窒素とリン酸を豊富に含む乾燥下水汚泥
課題は、乾燥に熱エネルギーが必要となること。その点、堆肥は微生物の力により自然と温度が上がるので外部からエネルギーを加える必要がない。もう一つの課題が「脱水した汚泥をできるだけ早く乾燥しなきゃいけない」こと。
「できたてほやほやの下水汚泥っていうのは、菌体そのもの、下水中の有機物を分解した微生物の塊そのものだから、臭くないんですよ。だけど時間を置くと、分解が進んでとんでもない臭いになるんです」。
堆肥化と乾燥肥料には一長一短ある。これらの肥料を散布する際には注意点がある。
「畑にまいてすぐすき込めばいいけど、そのままにすることだって多いじゃないですか。その場合、乾燥したままならあまり臭わないけど、すき込まないまま雨が降ってきちゃった場合には地表で分解が進んですごい臭いが出てくる。それも一つの課題」
大規模な自治体には、下水汚泥の容量を減らす手段として、燃やして灰といった焼成物にするところが多い。燃焼を経ると効きは悪くなるという。
「下水汚泥の中でリン酸は植物が吸収しやすい有効態リン酸です。燃やすと無機物になっちゃうから、リン酸の含有率としては高いけれど、それは植物が吸収しにくいリン酸なんです」
リン回収は高品質もコストがネック
肥料化の方法として近年有望視されているのが「リン回収」だ。薬品を使ってリンに狙いを定めて抽出する方法で、汚泥や処理水から高濃度のリンを取り出せる。

リン回収は品質の高い肥料を作れる代わりにコストが掛かる。写真は神戸市がリン回収の手法で製造する肥料「こうべハーベスト」
現状は安すぎる
下水汚泥を原料とする堆肥化あるいは乾燥化した肥料の価格は極めて安い。先進的な自治体であっても、キロ2円程度という破格の安さで販売している。希望者に無償で譲渡する自治体、肥料のユーザーが農家なのか家庭菜園なのか、地域のどこに需要があるのか把握できていない自治体も多い。後藤さんはこうした現状を「作物に利用可能なリン酸が数%でも含まれていれば、それだけの価値があるわけだから、もっと高く売らなきゃ」と批判する。
「リン酸が5%含まれている汚泥肥料だとしたら、リン酸が17%前後含まれる過リン酸石灰(過石)に近い。過石は20キロ2500円はするから、下水汚泥由来の肥料はその3分の1としても、800円の価値はある。そうすると、せめて今の10倍くらいの値段を付けないと」
下水汚泥を使った肥料は、農家から安かろう悪かろうと勘違いされている節もある。適切な価格で既存の肥料の商流に乗せていくことが大事だと、後藤さんは考えている。