自分で値段を決められる経営への挑戦
NOKAは深谷市のネギ農家の荒木俊彦(あらき・としひこ)さんと村岡輝明(むらおか・てるあき)さんが2017年に共同で設立した。
栽培面積は10ヘクタールで、ネギを中心にキュウリなども栽培している。販路は都内の百貨店や横浜にある高級青果物店などだ。
ともに実家がネギ農家の2人が共同経営を選んだのは、できるだけ自分たちで値段を決めるようにしたかったからだ。市場に出荷していたときは価格が相場に大きく左右され、収益を安定させるのが難しかった。
独自販売に切り替えたことで単価が上がり、当初の目的を達成した。その経緯を説明する前に、いったん2人の歩みを振り返ってみよう。

ネギの栽培の様子
経営と植物への興味を持つ2人がタッグ
荒木さんは46歳。自動車部品の工場などに勤めた後、「海外で働いてみたい」と思い、台湾系の会社に就職した。スマホの背面のパネルなどを製造する会社で、赴任先は中国の蘇州。25歳のときのことだ。
工場で品質管理や営業部門で働く傍ら、副業として喫茶店を開いてみた。そこで来店客数や注文内容をデータ分析し、経営の面白さを知った。
31歳のとき、帰国して実家で就農した。もともと農業には興味がなかった。だが中国で喫茶店を運営しながら、「経営にもっと正面から取り組んでみたい」という思いが募り、実家を継いでみようという気になった。

荒木俊彦さん
一方、村岡さんは36歳。就農までの経緯は荒木さんと対照的だ。
中学生のとき、親の育てたネギをたき火で焼いて食べてみて、「おいしさに感動した」。調味料を何もつけていなかったので、「ネギの食感の柔らかさや甘さ、香りの良さ」をストレートに感じることができたのだ。
「誰かがこれを守らなければならない」。そう思った村岡さんは日大生物資源科学部に進学し、植物生理学を専攻。卒業後は「世間知らずにならないようにするため」、いったん野菜の苗を育てる会社に就職した。
3年弱働き、25歳のとき実家で就農した。日本一の栽培技術を持つネギ農家になりたいと思い、そのためには早めに親から学ぶべきだと考えた。

村岡輝明さん
2人が出会ったのは12年前。地元の市場にネギを出荷している若手の農家の集まりで、荒木さんが「単価を上げるべきだ」と提案した。反応の多くは「難しい」。村岡さんだけが「やりましょう」と応じた。
荒木さんが売り上げや労働時間をもとに時給を計算してみたところ、わずか500円しかなかった。周囲の農家は「それでも暮らしていける」と考えていたが、荒木さんはそれでは人を雇うことさえ難しいと考えた。
村岡さんは別の課題を抱えていた。栽培面積が増えるのに伴い、市場にネギを出すと、量が多すぎて相場全体を押し下げてしまったのだ。そこで一部を他で売ろうとすると、市場の担当者から難色を示された。
事態を打開するには、対等な立場で値段を話し合える売り先を見つけるしかない。2人は意気投合し、販路の開拓に乗り出すことにした。
高級スーパーや百貨店が売り先に
荒木さんの人柄について、村岡さんは「人間関係を大事にする」と評す。販路の開拓でそれが生きた。地元の焼肉店の店主と荒木さんが知り合いで、この店のドレッシングの原料に2人のネギを採用してもらえたのだ。
仕上がりは抜群だった。「深谷市内で終わりにしたらもったいない」。そう思った2人は店主に相談し、農林水産省主催の農産物・加工品のコンテスト「フード・アクション・ニッポン アワード」に挑戦した。
1次審査をクリアし、厳選された100品のひとつとして本審査に進むことができた。だが会場に行ってみると、各地の有名な産品ばかり。百貨店や外食の関係者などの審査員が2人のブースを素通りしていった。
チャンスは片付け始めた時にやってきた。ある高級スーパーの副社長が試食して、味を評価してくれたのだ。賞は取れなかったが、本社を後日訪ねると、副社長から思わぬ提案を受けた。「(うちで)ネギを売らなくていいのか」

栽培の努力が売り先に評価された
バイヤーの審査を経て、2人のネギがこのスーパーの店頭に並ぶようになった。法人として取引に臨むべきだと考え、このときNOKAを設立した。
これと前後して、日本野菜ソムリエ協会が実施する野菜や果物の品評会「野菜ソムリエサミット」にチャレンジした。結果は他の農家のニンジンやジャガイモと並んで金賞。ネギで金賞を受賞するのは初めてという。
これにより、都内の百貨店や横浜の青果物店との取引がスタートした。販路の開拓に弾みがつき、市場で扱ってもらう必要もなくなった。
新たな挑戦は品目の多様化
市場出荷で値段を相場に委ねるのを嫌い、2人が共同でネギの販売を始めてから10年あまり。ネギ1本当たりの値段を2~3倍に高めることに成功し、安定して利益を出せるようになった。