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白米っていつから食べられているの?

白米っていつから食べられているの?

2017年07月31日

米離れが話題になることもありますが、米の主食としての地位はゆるぎません。米の食べ方としては白米を炊飯するのが一般的ですが、そもそも白米を食べるようになったのはいつ頃からか、米にまつわる文化の歴史と合わせてご紹介します。

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米離れ、が話題になることもあります。がコンビニエンスストアやスーパーでは様々な種類のおにぎりが売られ、簡単に食べられる真空パックのごはんやレトルトのお粥といった商品が並ぶなど、米の主食としての地位はゆるぎません。現在、米の食べ方としては白米を炊飯するのが一般的ですが、そもそも白米を食べるようになったのはいつ頃からか、米にまつわる文化の歴史と合わせてご紹介します。

「白米」が食べられるようになったのは奈良時代。ただし、食べられたのは特権階級の人達だけ。

稲作自体は縄文時代の終わり頃から始まっていましたが、「もみがら」と、「米ヌカ」を取り除いた「精製米」が食べられるようになった形跡が確認できるのは弥生時代の次の大和朝廷の時代となります。この頃に栽培されていた稲の多くは「古代米」と呼ばれる、稲の原種に近い自然に赤や紫などの色素を含んだ米でした。臼に杵で精米した米は「舂米」(しょうまい/つきしね/つきよね)と呼ばれていて、宮廷で働く人の給料でした。米の品種が現在のような「白米」になったのは奈良時代頃です。この時代の「白米」は「しらげのよね」と読み、貴族階級の人が口にするものでした。古代の精米方法はかなりの重労働となるため、庶民はそこまで手をかけられなかったことなどが理由として考えられます。

意外にも古代から食べられていなかった「玄米」。精製された白米が主流になった理由は?

「白米」が貴族の食べ物であるなら、庶民は玄米を食べていたのかなと想像しますが、稲作が伝来していた当初を除けば、米は精米して食べるのが一般的でした。玄米は食べていませんでした。最大の理由は玄米の炊飯には時間と燃料がかかり過ぎました。「白米」ほどしっかりとした精製はせず、現代で言うヌカが残る分づき米を「黒米」と呼び、それにヒエやアワなどの雑穀を混ぜたて食べていたようです。米はそのまま税として納める必要のある貴重品でもあったので、ヌカを完全に取り除いた米を食べる行為は大変な贅沢でした。江戸時代頃になると黒米は玄米を指すようになります。ちなみに「昔は玄米を食べていた」という説もありますが、明治時代頃までの精米方法は動力がなんであれ、臼と杵でつくという点に代わりはなく、現代で使われている精米機のようにもみがらをきれいに取り除いた完全な玄米はできませんでした。そのため、もみがらを取り除く段階で玄米のヌカの層に傷がついているため、厳密には「1分づき米」と呼ばれる状態であったと考えられます。

米の増産や精米技術の進歩 庶民も白米が食べられるようになったのは江戸時代頃

かつて庶民が白米を食べる事が難しかった理由は大きく分けて2つあります。

  • 米は税として納める必要があったので消費に必要な量が足りず、麦を始めとした雑穀を混ぜた物にする必要があった。
  • 精米が重労働で肉体的にも時間的にも負担が大きく、それに必要なコストが大きすぎた。

この二点が大きく改善され始めたのが江戸時代です。

米の生産量は享保の改革で飛躍的にアップ

室町時代以降、農業技術の発展や新田開発によって米の生産量は向上しました。加えて、戦乱の世が去り、江戸時代になると政治が安定したことで、更に生産量が増しました。江戸中期、「米将軍」と呼ばれた八代将軍の徳川吉宗が行った享保の改革は米の生産量拡大に拍車をかけました。武士階級だけでなく、時には農民も白米を口にできるようになりました。また、この頃になると江戸を始めとした都市部では、火災への対策などから一日分のご飯を一度にまとめて炊くようになります。保存衛生上の理由から庶民であっても傷みやすい玄米、雑穀米を避けて白米を食べることが一般化していきました。当時の食生活はとにかく多量のごはんを食べて、おかずは漬物程度だったようです。白米を食べるようになって、ヌカに含まれるビタミンB1が摂取できなくなったことで、欠乏症である「脚気」になる人が増え「江戸患い」などと呼ばれました。地方では玄米に近い分付き米に雑穀などを混ぜて食べるのが主流のままで、農村部でも白米を食べるのが当たり前になったのは明治になってからのことです。

精米の基本はやはり臼と杵。ただし動力は次第に変化。

江戸時代の間に、精米技術も向上しました。経済の発展に伴い米を専門に扱う店が現れて、精米を請け負うシステムが登場します。精米に使われる道具も変化します。従来の手で持った杵でつくスタイルだけでなく、中国から足踏み式の「唐臼」が伝わりました。従来の木臼から石臼に変化したこともあって、作業効率が飛躍的に伸びました。江戸時代中期には唐臼が更に改良されて、足踏み式から水車を動力にした大型化に成功しました。1954年に佐竹利市が動力式精米機を開発し、水車式から現在の電力による精米機へと繋がっていきます。

米の「食べ方」にも歴史あり。現在のような「白米」になるまでの調理法の変遷

稲作の伝来当時の食べ方は、不完全な脱穀精米の状態の米を、土器で煮て食べたと考えられています。その次はある程度精製された米を「蒸す」のが一般的な食べ方でした。これは、熱効率の悪さから煮る方法では時間がかかりすぎることなどが理由として考えられます。蒸気で過熱しながら水を打つ、蒸し調理の方が短時間で、上手く炊けます。こうしてできたごはんは固めの仕上がりとなるため「強飯(こわいい)」と呼ばれます。これでは消化が悪いので寺院では僧侶の食事や病人に対する施しのためにお粥も作られるようになります。平安末期頃から鉄鍋が普及し始めると、水気の少なめのお粥も作られるようになり、こちらは柔らかいので「姫飯(ひめいい)」という呼び方が広まっていきます。その後、一度茹でたお米を蒸して仕上げる「湯取り法」が広まります。この調理法は米の粘り気がなくなるので味は落ちてしまうのですが、手っ取り早く調理できて、傷みにくいという利便性から重宝されたようです。この後、かまどや羽釜が使われるようになり、現在の白米の炊き方であるうるち米を使った「炊き干し法」が一般的になります。

日本人は白米が好き

精米と米の調理法について触れてきましたが、白米を食べることが一般化したのは明治以降ということは、日本の白米食の文化はせいぜい100年程度ということが言えるでしょう。それ以前は白米はあこがれの食べもの「ハレ」の日のご馳走でした。現在の稲作には「一穂籾数」という捉え方があります。一つの穂につくもみ(米)の粒の数の目標値の指標では、85程度を目安にしています。稲作の栽培技術が今ほど発達していなかった時代でも一本の稲穂に一粒でも多くのもみを実らせるという努力を重ねてきました。米の生産効率と保存性の高さがどれほど生活に安定をもたらしてくれたかは容易に想像できます。日本人が米を大切にしてきた理由が理解できます。人間の欲求が技術を進歩させます。いま、白米食が一般化しているのはおいしい米が食べたいと言う欲求がそうさせたのでしょう。その先人の願いが米の生産量を上げ、精米にかかわる技術や調理法を進歩させて今日の当たり前に白米を食べる生活を作りました。白米を「銀シャリ」と呼んだ先人に思いを馳せながらまっ白なごはんを食べると、さらに味わい深く感じられる気がします。

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