幼稚園教諭から「やさいのおうち」のオーナーへの転身
「やさいのおうち東久留米」は、都心に通勤する人々のベッドタウン、東京都東久留米市にある畑です。季節の野菜を育てる農園を運営するのは、就農1年目の榎本義樹さん。榎本さんは、地元・東久留米で父が農作物を育てていた土地を譲り受け、「野菜狩りのできる農園」というコンセプトで畑を開放しました。
平日は子どもたちと野菜作りを行い、畑に併設した直売所に野菜を並べる。週末は「収穫祭」と題した野菜狩りイベントを開催する農園が「やさいのおうち」です。2017年の4月からスタートした活動はまだ1年も経っていませんが、すっかり地域に溶け込んでいます。
畑では、6月にジャガイモ、夏場には枝豆、トマト、キュウリ、ナス、ゴーヤ、ピーマン、ししとうなど、夏野菜を作りました。冬を迎えるこれからは「白菜やブロッコリーの生産に挑戦する」と言う榎本さんは「連作のできるもの、できないものがあることを初めて知った。今は、農作物の習性を学びながら、次に何を作るかを楽しく検討する毎日」を過ごしています。
幼稚園教諭から農園オーナーへ。その転身には「自分らしさ」を求める自身の強い決意がありました。
幼稚園教諭の経験が「より自分らしさ」を求める道標に
榎本さんは農園を開く直前の2017年3月までの8年間、幼稚園教諭の職に就いていました。幼い頃からピアノが好き。自分より年下の子どもの世話をするのが好き。好きなことを明確に認識していた榎本さんが、自分らしくできる仕事を考えたとき、幼稚園教諭にあこがれるのは必然のことでした。
専門学校を卒業した20歳の若者は、埼玉県所沢市の所沢文化幼稚園に就職し、所沢第二文化幼稚園で幼稚園教諭生活をスタートさせました。1年目から年長組の担任を受け持つことになって、子どもを好きなだけではやっていけない現実を突きつけられました。「子どもと遊ぶ仕事だと勘違いしていた」姿勢を改め、幼児一人ひとりと向き合う毎日は充実したものでした。
「幼児の感性を大切にする」という園の保育方針に刺激を受け、自然や生き物とのふれあい、本物に接することの大切さを、身をもって体験し、「振り返ると、良かったことしか思い浮かばない8年間だった」と言います。子どもと笑うこと、成長を見届ける生活は、他に代えがたい自らの成長の日々でもありました。子どもたちの未来を考えるのと同じように、自分自身の将来を考え始めたとき、「より自分らしさ」を求めた榎本さんは、大きな決断をしました。
発想の転換で「やさいのおうち」が動き出す
30歳になるまでに「その先の将来を決める」と自分に課していた榎本さんに、突然の転機が訪れたのは2016年の秋。このまま幼稚園教諭を続けて、園長を目指すか、自分で行動を起こすか。人と関わることは続けたい。漠然とした考えを抱えたままのある日。地元のNPOで働く友人芦野勇希(あしのゆうき)さんとの会話の中で「やさいのおうち東久留米」のアイデアが動き始めました。
芦野さんは、障がい福祉サービスを行う「NPO法人ゆう」が運営する「てんとうむし」の施設長。「てんとうむし」は、障がいを持った子どもたちの放課後等デイサービスを行っています。「利用する子どもたちに様々な体験をしてもらいたい」という芦野さんは、砂利だらけで、土壌の悪い場所での野菜づくりに失敗したものの「絶対に野菜づくりを諦めたくない」と打ち明けました。その話を聞いた榎本さんは「イチゴ狩りがあるのに、なぜ、野菜狩りはないのか」ということに疑問を持ち、農業従事者である自分の父親に問いかけました。父の答えは「野菜を収穫することは、面白いことではないから」。父のように、野菜を収穫することが当たり前の環境にいる人は「その面白さに気付かないだけだ」と思った榎本さんは、農家と世間のズレを感じました。そこに光を見出します。
「子どもに“本物”を見せることに野菜づくりは適している。自分でその場所を提供できないか」。いかにして、アイデアを実現するか考えるだけで、今まで感じたことのない高揚感を味わった榎本さん。幼稚園教諭を経験して、東久留米の農家に生まれた自分だからこそできること。
思い描くのは、子どもたちに“本物”を見せる、経験してもらう畑。地域の人が新鮮な野菜を求めて集まってくる場所。
半年後の3月に幼稚園を辞めること。父親に農園を借り受けることを決め、「やさいのおうち東久留米」が実現に向かいます。
野菜も人間も姿形にとらわれない。
交通アクセスの点や、子どもたちの導線や、作業スペースを考慮し、周辺環境にも申し分のない土地を父親から借り受けた榎本さん。1放課後等デイサービス「てんとうむし」に通う子どもたちが野菜作りを体験する土地 2地域の方々に、安全で安心できる野菜を提供する区画 3都心に住む親子が気軽に農業体験できる畑 4収穫祭で多くの人に野菜狩りを楽しんでもらう場所。そのすべてを「やさいのおうち」という名前に込めました。
幼稚園退職を前にした3月から施設作りを開始。作業スペースは充分確保する。小さい種は扱いやすいように、あらかじめ分けておく。彼らの目線で準備する。障がいを持つ子どもたちに、細かい作業をしてもらうための工夫は、保育の実務を体験したからこそ生まれるアイデア。
“子どもたちにできること、できないこと”に心を配るのは、幼稚園教諭時代に、食育につまずいた経験が生きています。ある園児に苦手な食べ物を食べさせようとした時のこと「その対応の難しさを実感した」と言います。“できること”と“できないこと”の間に“がんばればできること”があることを知った榎本さんは、本人のためにできることは“がんばるためのサポート”だと実感したそうです。一緒に寄り添うことが“できること”を増やすきっかけになる。
「彼らの努力する姿が、障がいの偏見をなくすことにつながる。簡単なことではないけれど、自分たちの活動で、地域を一体にできれば」と話します。まったく同じ姿形の野菜もないし、人間もいない。だからこそ尊い。目標は、自然と人間、農業と福祉、大人と子ども、人と人をつなげる、様々な交流が生まれる場所。「やさいのおうち」は、開設から1年を待たずに、地域になくてはならない存在になりつつあります。