「温湯消毒」ならぬ「温泉消毒」
梅と桜が同時にようやく咲き始めた4月。ところによっては雪がまだ溶けきっていない花冷えの頃、温泉街の一角で種もみが気持ち良さそうに温泉に浸かっていました。
お米の苗を育てる前には、種もみに付着している病害菌を殺菌する必要があります。慣行栽培では化学合成農薬を使いますが、農薬を使わない栽培方法の場合は、「温湯(おんとう)消毒」といって、60度の湯に10分間浸けて殺菌するのが一般的。ところが、福島県・猪苗代町「つちや農園」の土屋直史さんが行っているのは、なんと「温泉消毒」。ほんのりと硫黄の香りが漂う “源泉掛け流し”のぜいたくな消毒です。
土屋さんが「温湯消毒」ならぬ「温泉消毒」を実験的に始めたのは、2016年。つちや農園では、18ヘクタールで計10品種のお米を作っていて、このうちの1ヘクタールで育てる「亀の尾」と「ササシグレ」は、農薬も肥料も使わない自然栽培(有機JAS認証取得)。この2品種だけ、種もみを温泉で消毒しています。
湧出量日本一の源泉を利活用
「猪苗代だからこそできるお米で、地域の自然に根ざした“農”がしたいという思いもありました」と土屋さん。町内の「中ノ沢温泉」にある「小西食堂」の西村和貴(にしむら・かずたか)さんに相談したところ、偶然にも源泉が種もみの消毒に適した60度程度であることが判明。そして、西村さんを通して小西食堂隣の温泉旅館「磐梯西村屋」の全面的な協力を得てスタートしました。
中ノ沢温泉の源泉の湧出量は、毎分1万3400リットル。「単一口からの湧出量としては日本一と言われていますが、余った源泉は捨てられています」と西村さん。種もみの温泉消毒は、温泉の有効活用につながり、土屋さんも消毒に使う湯をわざわざボイラーなどで沸かす必要がありません。
また、鉱山の硫黄のほか地元住民や観光客を運んだ「沼尻軽便鉄道」が走っていた大正時代の中ノ沢温泉はにぎわっていましたが、昭和43(1968)年に軽便鉄道が廃止となってからは訪れる人が減少。西村さんは「温泉消毒した猪苗代のお米を通して、中ノ沢温泉をみなさんに知ってもらい、さびれた温泉街を活性化できれば」と期待しています。
生育良好の要因は泉質か
実は、中ノ沢温泉の源泉は、雑菌がすめないほどの強酸性。温泉卵を作ろうとすると、殻が溶けてしまうほど強力なのだそうです。当初、土屋さんは「種もみが溶けるのでは」と心配して、2016年産は実験的に2品種のうち1品種だけに温泉消毒を行いました。
1品種は、「塩水選(※)」で選抜した種もみに温湯消毒(微生物処理剤使用)を行い、1品種は、塩水選なしの種もみを温泉消毒。
※ 種もみを食塩水に入れて、沈んだものだけを採用。比重が大きく充実した種もみを選抜する方法。
すると、温湯消毒は「馬鹿苗病」と言われる感染症にかかった稲がいくつか見られましたが、温泉消毒は「馬鹿苗病」がほぼ見られませんでした。
「温泉消毒をした種もみの苗は根張りも良かった。温湯消毒のように微生物処理剤や食酢を使わずに一撃で馬鹿苗病に効きました。温泉消毒が100%馬鹿苗病に効くとは言えませんが、温湯消毒よりも明らかに効果があることは分かりました」と土屋さん。温泉の強酸性が馬鹿苗病に効き、硫黄成分が根張りを促進していると推測しています。
この結果を受けて、2017年産は自然栽培米の全量に温泉消毒を実施。すると、天候に恵まれない年でしたが、収量が増加しました。土屋さんが「温泉消毒の効果は苗の状態まで。植えてからの効果や食味への影響は分からない」と言うように、食味はさまざまな要因が絡むため、温泉消毒の影響があるともないとも言えません。ただ、事実として食味は前年よりも上がったそうです。
2018年産も引き続き、自然栽培米の全量に温泉消毒を実施。西村さんは「中ノ沢温泉の4月の風物詩にしたい」と言い、温泉消毒は恒例になりつつあります。
猪苗代湖は近年では水質が悪化していますが、西村さんによると、かつては源泉が猪苗代湖へ注がれていたことによって湖の水質が保たれていたそうです。そして、源泉付近にはかつて中ノ沢の温泉街がにぎわう大きな要因となった沼尻硫黄鉱山がありました。「周りのお米農家の中には、『温泉消毒で育苗が順調なのは、源泉の温度ではなく成分の効果では』と言う人もいます。そこは今後の研究課題です」と土屋さんは言います。
地域の自然資源を生かす知恵と工夫から生まれた「中ノ沢温泉米」。環境省によると、日本の源泉総数は2万7214カ所で、このうち1万2395カ所は42度以上の高温(2015年度)。源泉数上位5都道府県は、大分県、鹿児島県、静岡県、北海道、熊本県。「各地の泉質の違いが米の生育や食味にどう影響するのかが知りたい。温泉消毒をしている農家同士で情報交換ができれば」と土屋さん。“温泉大国”日本では、各地で温泉消毒ができる可能性がありそうです。