近江牛ヒストリー
養生薬「反本丸」が正式なルーツ
江戸時代、近江国(現在の滋賀県)北部を統治していた彦根藩は「反本丸(へんぽんがん)」という養生薬を将軍家に納めていました。この薬の正体は味噌漬けにした牛肉です。公には肉食は禁じられていましたが、牛肉の味を知り、何とか口にしたいと願う将軍家の人々や幕府の要人たちが、薬という名目で献上させていたのです。
この時代、彦根藩は幕府から牛肉の生産を許されていた唯一の藩であり、近江産牛肉は今でいう一種のブランドとして認識されていたことがうかがい知れます。つまりこれが近江牛の正式なルーツになっているのです。
将軍家の礼状を励みに製品開発
特に水戸藩の徳川斉昭は、この近江産牛肉の愛好者として知られ、嘉永元(1848)年12月に「度々牛肉を贈り下され、薬用にも用いており忝(かたじけな)い」と書いた礼状を彦根藩主に送っています。
彦根藩では加工品づくりにも取り組み、乾燥牛肉製法を開発。この「干牛肉」も将軍家に献上していたという記録が残っています。
明治時代の近江牛
明治時代になると、物流網の発展によって近江牛は東京へと輸送されるようになりました。
当初は神戸港や四日市港を経て海運で出荷。明治22(1889)年に東海道本線が開通し、近江八幡駅ができると翌年から東京への陸路での直輸送が始まりました。
それからおよそ100年の時を経て、近江牛としてのブランドが定着し、神戸牛・松坂牛とともに三大ブランド牛の一つ(※)として知られるようになったのです。
※ 米沢牛もしくは前沢牛が三つ目に挙げられる場合もある。
現代の近江牛のブランド戦略
東近江周辺の農業地帯で飼育
現在、近江牛は滋賀県内の約60の牧場で飼育されており、そのうち約8割は近江八幡市・東近江市を中心とする東近江周辺地域に集中しています。
この一帯は米の生産をはじめ農業の盛んな地域で、昔から農耕用に多くの牛が使役されてきており、地域の人々にとって牛はたいへん身近な存在でした。
県が一丸となって生産と消費を後押し
神戸牛、松坂牛が都市名を冠しているのに対して、近江牛は滋賀県全体を表す地名を冠しています。それもあって県が一丸となって生産と消費を後押しする体制を強めています。
2007年には「滋賀食肉センター」の操業開始とともに「『近江牛』生産・流通推進協議会」を設立。同協議会では地域団体商標の登録・管理、認証制度や指定店制度などのブランド力向上や販売促進に関する取り組みを行っています。
ブランド力維持と向上のポイント
滋賀県は近江牛のブランド価値を「品質の高さ・歴史の深さ・地域との近さ」としており、その特徴を消費者に周知PRすることがブランド力維持と向上のポイントとしています。
このうち三つ目の「地域との近さ」は密着性を表しています。水田が多く稲作が盛んなことを生かし、その副産物である麦わらを牛の飼料として供給するなど、地域の農業との循環性を意識して生産を行っています。
元気な後継者
もう一つ特徴を挙げるとすれば、それは後継者の存在でしょう。若い就農者にとって、近江牛は守るべき伝統文化であり、今後も発展していく産業の一つ。そうした認識のもと、誇りと希望を持って仕事に取り組めるため、後継者は少なくありません。
近江八幡市および東近江市の大中地区では30代を中心とした若い生産者同士が集まって「近江大中肉牛研究会ウシラボ」という団体を結成。近江牛をよりおいしくする肥育方法を独自に研究し、SNSなどを通して情報発信しています。こうした若手の自主的な広報活動も近江牛のブランド力を高める要因です。
丁寧なブランド育成
深い歴史の中で培われたノウハウ、そして、琵琶湖を中心とした豊かな自然環境。滋賀県には質の良い牛肉を育てる条件がそろっており、2017年度は近江牛を年間約6600頭出荷しました。
しかし出荷数にこだわり過ぎず、今後も手間暇をかけて牛を育て、流通・販売をケアし、引き続き県をあげての丁寧なブランド育成が行われていくでしょう。
近江肉牛協会
「近江牛」生産・流通推進協議会
近江大中肉牛研究会ウシラボ