お米業界の歴史を変えたコシヒカリ
コシヒカリが生まれたのは今から60年以上前の1956年。当時の福井県立農事試験場で開発されました。
意外にも誕生直後は栽培が広がりませんでしたが、1979年にお米の作付面積1位に躍り出てからは40年近くにわたってその座を保ち続けています。お米の栽培には地域によって向き不向きがありますが、東北地方から九州地方まで幅広い地域で栽培されている品種は、現在ではコシヒカリの他にはありません。近年では海外でもその名が知られ、いまや最も有名な日本米。国内外において「おいしい米」のイメージが根強い、言わばお米のスーパースターのような存在です。
さらに、コシヒカリはお米業界の歴史を変えた存在でもあります。
私たちはお米を買うときに、「コシヒカリ」や「ひとめぼれ」や「あきたこまち」などの「品種名」を目にしますが、こうした情報を知り得るようになったのは、コシヒカリがきっかけだと佐藤洋一郎さんは言います。
佐藤洋一郎さん。京都府立大学和食文化研究センター特任教授、総合地球環境学研究所名誉教授。京都大学大学院農学研究科修了。国立遺伝学研究所研究員、静岡大学農学部助教授、総合地球環境学研究所教授・副所長。大学共同利用機関法人人間文化研究機構理事を経て現職。専門は植物遺伝学。30年以上にわたり、アジア各地をフィールドワークし、稲の起源を探ってきた
「消費者が『品種名』を知るようになったのは、1995年に食糧管理法が廃止されて食糧法が制定され、自主流通米(※1)が出現したことが始まりです。それまでは消費者は『一等米』『二等米』という等級や『播磨(はりま)米』『近江米』『伊勢米』といった産地の情報しか知ることができませんでした。そうした状況の中、新潟県が「コシヒカリ」の名前を前面に出して販売し始めてからは、品種名の情報が届けられるようになりました」(佐藤さん)。品種は、農家だけが知る「稲の品種」から、消費者も知る「米の品種」に位置付けが変わったのです。
※1 政府を通さず、集荷業者や販売業者などを通じて流通するお米
“三方良し”のお米として人気に
さらに、コシヒカリは「たくさん取れるお米」から「おいしいお米」へと、人々の価値観や需要を変えるきっかけにもなりました。
「戦後から国家戦略として一粒でも多く米をとろうという時代が続いていましたが、昭和40年代に米の生産性は飽和に達しました。どんなに技術革新しようが、品種改良しようが、肥料を多用しようが、収穫量はそんなに増えなかった。そこで、『量』から『質』へと最初に方向転換したのが、新潟県でした。うまい米を作ろうと考えたのです」(佐藤さん)
自主流通米となりお米の価格を自由に設定することができるようになったことで、「収穫量=収入」ではなくなりました。たとえば、2割高く販売すれば、収穫量が1割減っても、米農家の収入は約1割増えます。また、コシヒカリはいもち病にかかりやすかったため、病気を防ぐために窒素肥料を減らすと食味が上がりました。各県の試験場が手厚くコシヒカリの栽培指導を行ったことも全国に拡大することへの後押しとなり、精米の歩留まりが良かったことで米屋にも好まれました。さらに、高度経済成長によって消費者がお米に対して量よりも質を求めるようになるなど時代にもマッチしていました。
コシヒカリは、農家、米屋、消費者にとって“三方良し”のお米として歓迎されたのです。
東と西で好まれる“オールジャパン”
2018年の産地品種銘柄を見ると、北海道と東京都と沖縄県を除く計44の府県で栽培されているコシヒカリ。しかし、コシヒカリが広がる以前は、「大阪市場に持ち込まれる米は大粒で米質が硬く、東京市場に持ち込まれる米は小粒で米質が軟らかい」(佐藤さん)というふうに、東日本と西日本で米の好みは違っていたそうです。
では、なぜコシヒカリの味は東日本にも西日本にも受け入れられたのでしょうか。
コシヒカリは、「農林1号」と「農林22号」を掛け合わせて生まれました。
「農林1号」は東日本でおいしい米として広まった「陸羽132号」や「亀ノ尾」といった系統の品種。そして、「農林22号」は西日本でおいしい米として広まった「旭」系統の品種です。
それまでは東と西の品種を掛け合わせた例はあまりありませんでしたが、“東の横綱”系統と“西の横綱”系統が交配したコシヒカリの誕生は、日本人の米の好みに変化をもたらしました。
「日本全国ほぼどこでも作れる“オールジャパン”が生まれ、東で食べ慣れた食味と西で食べ慣れた食味が合体することによって、両者で受け入れられる味わいが生まれました。だからこそ、コシヒカリは広まったのだと思います」と佐藤さんは言います。
そうは言っても、コシヒカリが誕生してから作付面積1位の座に上り詰めるまでには、23年もの歳月がありました。佐藤さんによると、当初はコシヒカリの評価は関西を中心に高く、関東ではコシヒカリよりも「ササニシキ」が人気でした。
ところが、ここでもまた新潟県の動きが影響を与えました。
「きれいな水と肥沃(ひよく)な大地で栽培した新潟コシヒカリ」「昼夜の温度差が大きいからおいしく育つ魚沼コシヒカリ」などとうたうイメージ戦略によって関東にもコシヒカリが広まっていったのです。そして、追い打ちをかけるように、1993年の平成の大冷害によって、ササニシキは壊滅的なダメージを受け、“コシヒカリ一族”に置き換わっていきました。東西で好まれるコシヒカリの誕生をきっかけに、日本人の米の味覚は均一化の道をたどり始めたのです。
コシヒカリによって失われたもの
コシヒカリ誕生後は、コシヒカリをベースに品種改良が繰り返され、現在では全国で栽培されている品種の8割がコシヒカリ系品種(コシヒカリを片親とする近縁品種)という“コシヒカリ一強時代”。「農林100号」の農林番号(※2)で1956年にコシヒカリが誕生してから、2015年時点で水稲の農林番号は「農林474号」までつけられています(農林水産技術会議「平成28年農林番号付与品種」)。
「約60年間に国で作った品種だけでも300系統以上あり、各都道府県で作っている品種はもっとある。しかし、その中でも特定の品種しか市場に残っていません。各農業試験場のブリーダーたちにしてみたら『良いものをつくってもコシヒカリには勝てない』という不幸な状況です」と佐藤さん。売る側にも買う側にも「コシヒカリの血を受け継いでいるからおいしい」という風潮があり、「育種はマーケットに勝てないのです」とも。もしかしたら多くの人たちが「おいしい」と感じる品種もあったかもしれないことを思うと、コシヒカリ一辺倒の状況によって失われていったものも大きそうです。
佐藤さんは、コシヒカリがここまで広がったことによって、「確実に多様性がなくなった」と指摘しています。次回「日本人がコシヒカリを好む理由【もっとうまい米は作れる?】」では、多様性が失われることによって生じる問題と、多様性を生み出すためのヒントについて探ります。
※2 農水省所属の研究機関や、各県に点在している国指定試験地で育成された農作物品種につけられる登録番号。
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