雑草昆虫農法(草も虫も共に生きる農法)の実践から気づくこと
私は、神奈川県藤沢市で野菜農家をやっています。普段は人間と接するよりも、虫や鳥など人間以外の生命体と接するような生活を送っています。「産業的」な農業というよりは、自給自足の延長のようなスタイルで年間30種類ほどの野菜を作っています。
雑草や昆虫は駆除せず、共存する形で栽培しているので、先輩の農家さんから「小島さんは、野菜だけじゃなく、雑草と昆虫も育てているね」と言われたりすることもあり、どうせならわかりやすいネーミングを、ということで、最近、自ら「雑草昆虫農法」と名付けました。
一見、野菜作りに「不要」と思われるような雑草や昆虫も、ゆるい付き合いをしていると、いつしか共存関係を築くようになり、私たちの野菜作りを助けてくれたりすることがあります。例えば、雑草が存在することで水分の蒸発を防いでくれるので保湿になったり、虫が出すフンなどが土の栄養になってくれたり。
人間の社会構造において短期的な利益を求められる農業という産業にとって、役に立ちそうなものを「野菜」「益虫」、役に立たないものを「雑草」「害虫」と区分していたものが、いつの間にか、どの存在も、今の時代を共に生きる自分と同じ「生命体」といった存在感を放つようになります。
「この土は何億年前からここにいるのだろう?」「人類が誕生した時の歴史を見てきた砂粒もいるかもしれない」「私の祖先とここにいる虫たちの祖先も同じだったかもしれない」などと考え出すと、人間社会が、植物、昆虫や土の中の目に見えない生き物たちの協力により発展してきたという歴史を感じずにはいられません。
価値観を揺るがすような経験をもたらしてくれる畑
「畑」は、食糧生産の場でありながら、人間と自然との接点の場であるせいか、価値観を揺るがすような経験を与えてくれることもあります。
農作業を通じて自分の新しい一面を発見する場となったり、天候などによる不作を経験することで自然への畏怖(いふ)の念とある種の諦観を感じる「学びの場」となったりします。
「野菜を育て上げる」という小さな成功体験の積み重ねを通じて自分への自信を取り戻す場となったり、炎天下での農作業を経験することを通じて、心身のトレーニングの場となってくれることもあります。
「場」としての「畑の力」は無限大といっても過言ではないと思っています。
広義での農福連携
私は、この「畑の力」を生かし、「農スクール」という団体で、人手不足の農業界と働きたいけれど仕事がない方の架け橋となる取り組みを行っています。「農スクール」では、ホームレスの方や生活困窮者や引きこもりの方、障がいを持つ方などが、野菜作りを通じて、自分への自信を取り戻したり、新たな自分の長所を探せるような場づくりに取り組んでいます。農スクールには、農業界での就労を目指す方向けのプログラムもありますので、農スクールに通った後、人手不足の農家さんに就職して正社員になった方や、自分で独立して農業経営者になった方もいます。
私達の取り組みも広義では「農福連携」に入りますが、一般的に「農福連携」というと、福祉作業所で障がいを持つ方が農業に取り組むスタイルを想像される方も多いようで、私たちのようなスタイルはなじみがないと言われることも多々あります。
なじみなく感じられる理由として考えられるのは、元々「福祉分野に取り組もう」とか「農福連携の分野に関わりたい」といった、現行の制度や枠組みに基づいて取り組みを始めたわけではないからではないでしょうか。
元をたどれば、小学校と家庭以外の社会を知らない8歳の頃の私の、「人間は食べなければ死ぬ」→「みんなが自分の手で自分の食べるものを生み出せるようになると、餓死する人はこの世からなくなるのではないか」という単純な思い付きが、今の取り組みのベースとなっています。
適材適所の意味
「現代社会で働きづらさを抱える方が農を食と職にしていく」ということに向き合っていくには、そもそも「仕事」とはなにか?を考える必要がでてきます。
人類が、地球に誕生し、共同体が生まれ、分業や貨幣制度などを発明・発達させ、今の社会構造における「仕事」というものが生まれてきました。
人によって作り出された「仕事」において、「適している/適していない」ということが区分されるようになります。それは、単に人の手で作り出された基準なのですが、分業が生まれる以前の昔から存在していたような錯覚に陥ってしまうことがあり、「優れているかどうか」という基準にすり替えられてしまうことが起きてしまっているような気がします。集団で生きる生存戦略を取らざるを得ない人間という種の悲しい性なのかなと思います。
ここで畑を見てみたいと思います。
ある野菜の種がありました。この種は、この地域の畑では発芽しませんでした。
ここからちょっと離れた東にある畑に持っていき、種をまいたところ、芽が出て、たくさんの実をつけてくれた、というようなことが起きました。
このことから、「ある野菜の種」は、「適していない場」であれば、まったく芽を出さないのですが、「適している場」であれば、芽を出し、実をつけてくれるということが分かります。
農スクールの卒業生でも同じようなことが起きました。
自分の名前以外の漢字は読み書きができないけれど体力には自信があるという方が、事務作業がほとんどない農業の生産の現場に就職したり、他人との会話が苦手でほとんどしゃべらないけれど観察力がある方が、その方と同じく無口で観察力があり腕のいい農家さんのところに就職したり。
「適材適所」を極めていけば、もっと多くの方が活躍できるんだな、と実感しました。
畑はカオス~多様性を許容する世界~
そして、「適材適所」を極めていけるかどうかのベースにある価値観は、「多様さを許容する世界であるか否か」ということなのではないかと思います。
人間の作った画一的な物差しで優劣を考える世界ではなく、自然界のようにカオスで、多様性を許容する世界の方が、「適材適所」にマッチしやすいと考えます。
社会構造うんぬんは置いておいて、人は農作物を食べなければ生きていけません。だからこそ、私は、誰もが自分が望めば自分の手で農作物を生み出すことができる世の中になればいいなと願っています。そして、農作物を生み出すフィールドである「畑」は、いつだって多様性に満ちあふれ、すべてのものを許容してくれる世界に違いないのです。