ひご野菜「水前寺もやし」とは
水前寺もやしは、熊本市が指定する伝統・特産野菜「ひご野菜」のひとつである。
全部で15品目のひご野菜には、水前寺のり、熊本赤なす、ずいきなどが挙げられる。指定を受けるためには、
1. 熊本で古くから栽培されてきたもの
2. 熊本の風土に合っているもの
3. 熊本の食文化にかかわるもの
4. 熊本の地名・歴史にちなむもの
の4項を満たしていなければならない。
水前寺もやしは、上記の4項すべてを満たす存在だ。
「藩政時代からの名産品として知られ、清らかな江津湖の湧水を利用して伝統農法で栽培される長寿と健康を願う縁起物の正月野菜」であるとして指定を受けている。
通常のモヤシと比べずっと長く、大きな豆をつける水前寺もやしは、長寿と健康を願う縁起物とされ、雑煮の定番具材として使われてきた。
家庭によってさまざまではあるものの、一般的な熊本の雑煮には水前寺もやしの他に鶏もも肉、大根、ゴボウ、ニンジン、里芋、京菜、シイタケなどが入る。煮干しやスルメでだしを取り、丸餅を入れたしょうゆ味に仕上げる。
水前寺もやしは、その長さゆえの縁起物であるため、調理の際に折ったり切ったりするのは厳禁。雑煮を作るにも大きめの鍋を使い、他の具材に火が通った頃にそのまま入れてひと煮立ちさせれば完成である。
見た目のインパクトだけでなく、味も独特だ。
普通のモヤシに比べてシャキシャキ感が強く、大きな豆も食べごたえがある水前寺もやしは、椀(わん)の中でひときわ存在感を放つ。熊本の正月には絶対に欠かせない存在だ、と言い切る人も少なくない。
湧水を使った、江津湖畔での栽培
水前寺もやしはその名の通り、熊本市の中心部から南東に約5キロの「水前寺江津湖公園」の中で作られており、上江津湖芭蕉園の一角に畑がある。
栽培・収穫は年に1度、12月末のみ。市内の青果市場が年末の最終営業となる日に合わせ、5000束ほど出荷している。
江津湖の周辺には、あちこちから阿蘇山の伏流水が湧き出している。
隣接する地区の名は熊本市中央区出水(いずみ)。古くから美しい湧水が出ていたことを表す地名だ。
そんな湧き水を使って栽培される水前寺もやし。
水温は年間を通して18℃ほどで安定しており、取材した12月26日は気温が一桁だったため、湧き水につかった足元があたたかく感じられた。
畝を整えて大豆をまき、もやしが収穫できるまでの期間はおよそ2週間。新聞紙・むしろ・稲ワラをかぶせ、日光を遮断し保温に注意しながら慎重に育てていく。
畑に張る水の量は、毎日少しずつ調整する。水位や稲ワラの分量のちょっとした加減などで、生育具合が大きく変わるという。
この地に嫁いですぐの頃から、水前寺もやしの栽培に関わって60年ほどにもなるという米満タマ子さん。
夫である主一(しゅいち)さんは水前寺もやし栽培の名人だったが、2017年11月に突然他界。その後は、おいに当たる中川さんに栽培を引き継ぎ、息子の忠男さんの力も借りて3人であれこれと試行錯誤を重ねながら栽培を続けている状態だ。多くの人手が必要となる収穫時には、さらに親戚や近所の人の手も借りている。
たった1軒になっても作り続ける苦労と重圧
50年ほど前までは、水前寺もやしは現在の何倍もの規模で栽培されていた。出水地区の農家が総出で行う大仕事で、一度に最大40人ほどで作業していたという。その後は減少の一途をたどり、1980年代には20軒ほどあったという生産者も、ここ数年はわずか2軒にまで減った。
他に1軒だけ残っていた農家も80代となり、高齢のために栽培をやめたため、2020年末には水前寺もやしを作っているのは1軒のみとなっている。
水前寺もやしを栽培している農家が他にいないため、生育状態について何か気になることがあっても相談相手がいない。
忠男さんは「父が長年の経験に基づく勘のような采配により調整していた水加減や稲ワラの厚みなどは、決して体系化されたものではないから困っている」と笑う。
全長30センチ以上になる水前寺もやしを、真っすぐに美しく育てるのはなかなか難度が高い作業だ。生育途中で雨が降れば、水を吸ったワラが重くなりすぎて曲がってしまうことも珍しくない。
その年、あるいはその日の天候などに影響されるためか、原因は分からないまま、真っすぐに育たないことや豆が黒く変色してしまうこともある。35センチほどにまで育つはずが、思ったような長さまで伸びてくれない場合もある。
それでも、「水前寺もやしがないと雑煮を食べた気がしない」「熊本に正月が来ない」という熱心なファンの声に支えられているという。
雑煮やおせちなどを好まず、昔ながらの正月らしい正月の過ごし方をしない若い世代も増えているが、何とか熊本の伝統として水前寺もやしを残したいという思いがある。
熊本農業高校の生徒たちも、実習として毎年必ず栽培に参加しているほか、近隣の出水南小学校の児童らも種まきから収穫まで手伝いに訪れる。児童は収穫後に雑煮会を開催し、楽しみながら地域の伝統に触れる。大切な食育の機会にもなっているとして、これからも続けてほしいという保護者からの声も多い。
「収穫にやってくる子どもたちの笑顔を見ていると元気をもらえる」と話していた主一さんの遺志を引き継ぎたい思いもある。農業高校の生徒たちの中から後継者が育ってくれたらと願いながら、いとこの中川さんと協力してもうしばらく栽培を続けたい。美しい湧き水が絶えず流れる畑の中で、忠男さんは語った。
編集後記
「細く長く、そしてマメに生きる」。そんな願いを込めて、熊本のお正月に長く愛されてきた水前寺もやし。
たった1軒となった生産者には、さまざまな苦労や重責もある中で、使命感を持って栽培を続けている様子に頭の下がる思いがした。
水前寺もやしは縁起物としての位置付けが強いとはいえ、実は雑煮だけでなく炒め物や中華風サラダ、鍋物の具材にしてもおいしく食べられる野菜でもある。熊本の人々の暮らしに、より身近な野菜になってもよいのでは、とも感じた。