森のベリー、モリイチゴとは
森に自生するイチゴの一種、モリイチゴ(和名。別名シロバナノヘビイチゴ)。バラ科オランダイチゴ属の多年草で、学名はFragaria nipponica(フラガリア・ニッポニカ)。国内にも広く分布し、身近な野山で出会える植物です。
モリイチゴは、現在一般的に出回っているイチゴの原種であるオランダイチゴと同属。小さなしずく型の果実は甘酸っぱく芳香がありますが、栽培作物としては利用されていませんでした。この植物に着目して2000年頃から調査研究していたのが、北海道立総合研究機構森林研究本部林業試験場(美唄市)の研究主幹、錦織正智(にしこおり・まさとも)さんです。
錦織さんの専門分野はクローン増殖技術。さまざまな未活用の植物の栽培化について研究し、それが地域で役立つよう苗や技術の供与もしています。錦織さんの働きかけを機に、過去には美唄市のナナカマド切り枝(生け花用)生産、江差町のタラの芽ふかし栽培(タラノキの切り枝から芽を収穫する栽培法)などがスタートしました。
研究の実用化には、実際の栽培を行う農家の存在が欠かせません。モリイチゴの研究も、栽培技術の高い農家の下で試験栽培が行われています。
2代目農家の新テーマは「森のイチゴ」
フルーツトマトで成功した父のもとで就農
道北に位置し、町の面積の90%を森林が占める北海道下川町は、“森のまち”とも言われています。ここで及川農園を開いたのが、デンソーの技術者から農家に転身した及川幸雄(おいかわ・ゆきお)さんです。愛知県から移住し、町の研修施設を経て1993年に加工用トマトの栽培をスタート。その後、市場価値の高いフルーツトマトにシフトして独自の工夫を重ねた末、土耕ハウスで減農薬栽培に成功しました。
現在、及川農園の経営を担うのは幸雄さんの長男、泰介(だいすけ)さん。泰介さんは1986年生まれで、下川町に来たときは7歳でした。隣町の名寄農業高校から本別町の農業大学校に進みましたが、農園を継ぐならば実地で学ぼうと考えるようになり、2005年にUターン。実家の農園に“就職”し、2019年に父から経営を引き継ぎました。
現在はトマト(ハウス13棟)を柱に、ホワイトアスパラガス(ハウス3棟)、ブルーベリーとハスカップ2ヘクタールを栽培しています。ベリーの苗を植え始めたのは2014年。父幸雄さんの「町の人が憩う、公園のような観光果樹園」というアイデアを泰介さんが引き継ぎ、近い将来の開園をめざして苗木800本を育てています。
森のまち下川町で、モリイチゴを植えてみた
錦織さんが及川さん親子に出会ったのは、2018年のこと。錦織さんはタラノキの栽培先を探しており、当時の下川町農務課長が旧知の及川農園を紹介したのです。タラノキ栽培が始まると、錦織さんは経過を見に農園を訪れるようになります。そして幸雄さんたちが小果樹を植えていると知り、北海道に自生するベリーとしてモリイチゴの栽培を勧めました。
「錦織さんと父が話すうちに、『果樹園に赤いベリーもあると魅力的じゃないか』『森の植物なら下川町のイメージにも合う』ということになり、まずは空いている畑で試すことにしました」(泰介さん)
栽培化の道のり
100株からハウス高設栽培へ
最初に畑に植えられたのは、錦織さんが北海道の林野から採取した幼苗100個体。「次々に花が咲いては実る。苗数が多ければ途切れなく収穫できそうだ」というのが泰介さんの第一印象。そこで2019年は畑を移して高畝栽培を試しますが、トマトの作業が多忙だったため十分に手をかけられずに終わります。
「それでもうちの子や親類の子どもたちが喜んで食べ、味の反応は上々でした」(泰介さん)
2020年には簡易的な高設栽培がスタート。トマトの育苗が終わったハウス内にプランターを置いて日照や温度を調整し、ポットでの苗づくりが始まりました。
錦織さんは、初めてハウス栽培の苗を見た時のことを鮮明に覚えています。「野生のモリイチゴのすみかは林の地表部や林の周縁部の日陰で、その姿は小さく可憐です。それがプロの農家の手で大切に育てられると、こんなにも大きく立派な姿に変わるのかと感動しました」
栽培実験から本格生産めざして
この手応えをもとに、2021年には970株で高設液肥栽培の半自動化試験がスタート。生産本格化に向けて資材の検討を行い、かん水システムのデータと株の開花数などの記録を続けています。「苗づくり、ポットサイズ、成長に合わせた養液の配合と量など、今年のデータが栽培マニュアルの基礎になります。また、株を何年持たせるかで作業量も決まってきますし、今後は病害の調査や対策も重要です」と泰介さん。
2021年の初収穫は6月中旬。授粉用ハチを導入した影響もあり、結実数や果実の形の良さ(いびつでないこと)も観察されています。
栽培化の先も模索~販路と流通~
新たな栽培が軌道に乗ってくると同時に、用途や販路開拓、つまり出口探しも必要になってきます。特にモリイチゴの場合は指でつぶれるほど柔らかく、保存も流通も冷凍に限られます。そこで活躍したのが、町内の菓子店「矢内菓子舗」です。同店は、これまでも及川農園のブルーベリーやハスカップを商品化している間柄。試験段階から、モリイチゴの冷凍果実でスムージーやケーキを試作してくれました。
一方、本州との取引も始まっています。錦織さんの紹介で訪れた農産物コーディネーターの紹介で、人気フランス菓子店「メゾンジブレー」(本店・神奈川県大和市)が2020年のクリスマス時期にモリイチゴを採用したのです。オーナーの江森宏之(えもり・ひろゆき)さんは、「モリイチゴはフランスで働いていた際に貴重な旬の味だったフレーズ・デ・ボアにそっくり。冷凍状態でも香り立ち、一瞬でとける口どけの良い食感は他の果実にない魅力です」と高評価。今後の本格栽培に期待しています。
デビュー前に早くもファンがつきそうな、幸せなモリイチゴ。一方、泰介さんは今期のテーマである栽培試験の真っ最中です。「本来の味や香りと、ハウス栽培の落とし所が難しい。一つ課題をクリアすると二つ課題が出てくるので悩みは尽きません。でも、僕も父もこういった試練は嫌いではないので、根気よく観察と考察を繰り返したいと思います」。ハウスの苗から伸びるランナー(つる)は下段のポットへ誘引され、2022年の苗づくりも、もう始まっています。
始まりは、地域の植物資源への気づき
野生のモリイチゴの栽培化について、錦織さんは「資料や論文を見る限り、営利栽培の報告は見当たりません。及川農園が初めて取り組んだのでは」と見ています。
錦織さんによれば、野生植物の栽培化にはいくつかのステップがあるそうです。
最初のステップは、身近な野生植物の価値を再発見すること。次に選抜や育種、栽培法などが整い、地域で活用され関わる人が増えていく。そして販路や規格が伴い、ブランド化の可能性が広がります。
「モリイチゴの栽培化は、面白いから育ててみようという及川さん親子がいたからこそ始まりました。これからその実体が形作られていくのが、非常に楽しみです」
泰介さんの今後の計画の一つは、整備中のベリー園をまずは町民向けにオープンすること。「農家ができるやり方で、町のみんなの暮らしに楽しみをつくりたい」と語ってくれた泰介さん。その時にはブルーベリーやハスカップと共に、ハウス育ちのモリイチゴを摘み取って楽しむことができるかもしれません。