浪人時代に生産者になることを決意
西崎ファームは、前代表の西崎敏和(にしざき・としかず)さんが30年以上前に立ち上げた。清水さんがトップになったのは2020年5月。約1ヘクタールの農場で、3000~4000羽のカモを放し飼いにしている。雨をしのぐための屋根も設置してあるが、農場の中はカモが自由に移動できるようにしている。
清水さんは大学受験に失敗して浪人したとき、将来は農家になろうと決心した。もともと生き物が好きだったことが理由の一つ。ちょうどその年に東日本大震災が起こり、地域社会のために自分が何をすべきかを考えたことも、1次産業で働こうという思いにつながった。
大学では農業経済を学ぶかたわら、さまざまな農場でアルバイトをして農業の実情への理解を深めた。さらに農業系のサークルに入って農場を訪ね、生産者と交流を重ねた。そこで農作業を手伝い、経営者と食事もともにするなかで、考え方に強い印象を受けたのが西崎ファームだった。
大学を出ると、事業の多角化で農場を運営している企業に就職した。だが期待していたような内容ではなかったため、5カ月でやめた。次に農業法人で働いたが、ここでもうまくなじむことができず、半年ほどでやめた。
そんなとき、西崎さんから連絡が入った。「そろそろ引退しようと思っている。後継ぎがいないので、こちらに来ないか」。清水さんは学生時代、2カ月に1回のペースで西崎ファームを訪ね、「将来は1次産業で働きたい」と話していた。そのことを、西崎さんが覚えていてくれたのだ。
「3年したら経営を譲る」というのが、西崎さんがはじめに示した条件だった。その言葉通り、3年後に代表の座を降り、清水さんにバトンタッチした。清水さんによると、「3年間の修行中はずいぶん厳しいことを言われた」という。
西崎さんが求めたのは、カモの飼育方法や加工の仕方などだけではなく、経営者としての心構えだった。いざ交代の時期が来ると、「ここまでよく頑張った。こんな厳しい状況の中でも、君なら正しい判断ができるだろう」と言ってくれた。清水さんは「その言葉が本当にうれしかった」とふり返る。
ではトップになるまでの3年間に清水さんは何を学んだのか。その点を質問すると、清水さんは「あまりに昔のことで、細かいことは思い出せない」と話した。代表になったとき、経営は「厳しい状況」に直面していたからだ。
想定外だった2つの大きなピンチ
代表になったのは2020年5月。このタイミングを聞けば、読者の多くは何が起きたのか想像がつくだろう。新型コロナウイルスの感染拡大だ。西崎ファームの主な売り先は飲食店。その多くがコロナの影響を受け、注文が激減した。西崎ファームの5~7月の売り上げは半分に落ち込んだ。
清水さんが最も大きなプレッシャーを感じたのが、従業員への給与の支払いだった。「胃が痛くて薬を飲んだ」とふり返るほど、そのストレスは大きかった。飼料の販売店など取引先への支払いにも神経をつかった。売り上げが大きく減るぎりぎりの状態の中で、資金繰りに頭を悩ます日々が続いた。
そんな中で新たに始めたのが、ホームページを通した消費者への直接販売だ。飲食店向けの売り上げの減少をカバーできるような量ではなかった。小分けの発送なので、手間もかかった。だが飲食店からの注文が1件もないような日が続く中で、少ない売り上げでも精神的な支えになった。
新型コロナの影響はトップになって1年半ほどでほぼなくなり、売り上げも徐々に回復した。「いまも多少の浮き沈みはあるが、もう大丈夫」という。だがその間に、清水さんはさらに大きな困難を経験した。鳥インフルエンザだ。
2021年1月下旬、清水さんがヒナを購入している先から一本の電話が入った。「うちで鳥インフルが発生したかもしれない」。そのときは、事態の深刻さを理解できなかったという。
だがその日のうちに家畜保健衛生所のスタッフが来て、清水さんにこう告げた。「全羽殺処分になります」。仕入れたばかりのヒナを含め、農場で飼っているすべてのカモを殺処分の対象にするという通告だった。
「もうおしまいだ」。そう思った瞬間、清水さんの目から涙があふれ出た。だがすぐに気を取り直すと、保健所のスタッフに激しく抗議した。「まだ検査もしていないのに、なんてことを言うんだ。出て行け」。そんな清水さんをよそに、保健所のスタッフの人数が増え、殺処分の準備をし始めた。
日が暮れたころ、事態は突然好転した。