精米の業務用販売を停止
橋本さんは50歳。父親が1994年に立ち上げた農業法人、沼南ファームの社長に2024年6月に就いた。父親が体調を崩したことが、設立から30年で経営のバトンを受け継ぐきっかけになった。
沼南ファームの栽培面積は130ヘクタール。発足したころは10ヘクタール程度だったが、田んぼを借りながら規模を大きくしてきた。
橋本さんが社長になって以降、着手した経営改革の1つが販路の見直しだ。その狙いを理解するために、それ以前の売り先に触れておこう。
収穫したコメの3分の1の販売先はコメ卸。さらに3分の1は地元の工場の社員食堂や病院食、ファミリーレストランなどに業務用として売っていた。前者は玄米のままの状態で、後者は精米したうえでの販売だ。
これを抜本的に改めた。販路の柱になっていた精米の業務用販売をやめて、その分をまるごと卸向けに振り替えたのだ。背景にはウクライナ戦争によるコストアップをはじめとした、経営環境の劇的な変化がある。
その決断が、もし精米の業務用販売を続けていたら起きたかもしれない経営のピンチを未然に防ぐことにつながった。そのことは後述しよう。
ちなみに、残りのコメは地主に地代として届けたり、地主の求めに応じてプラスアルファで販売したりしてきた。このルートに回すコメの量はいまもほぼ変わっていない。地主はその一部を親戚や知人などに販売している。
精米機の高騰で決断
業務用の精米の販売は、沼南ファームの発足から3年ほどたったとき始まった。父親の知人が、社員食堂でコメを必要とする地元の工場を紹介してくれたのがきっかけだ。沼南ファームはそのために精米機を導入した。
工場に続いて病院食など、知人のつてで売り先を増やしていった。橋本さんは父親が始めた精米販売について「当時は農家が業務用でコメをじかに売ることはほとんどなく、革新的な取り組みだった」と振り返る。
業務用とは別に、地元の道の駅も精米の売り先になった。農場の名前を袋に印刷して販売した。当時では珍しい試みだ。橋本さんは「農家が自らブランドを立ち上げて、付加価値をつける先駆けとなった」と話す。
社長になったのを機に、このうち業務用の販売を打ち切ることにした。理由の1つは機械の更新をためらったこと。精米機は長年使い続けると消耗し、買い替える必要がある。その値段が以前の何倍にも高騰していた。
ウクライナ戦争以降のコストの上昇も背中を押した。収穫したコメを玄米にしてまとめて一気に販売する卸向けと違い、業務用は年間を通して小分けで配送し続ける。そのためのガソリン代が重荷になっていた。
より前向きな理由もほかにある。精米作業に充てる人員を、栽培に回したいと考えたのだ。橋本さんは「生産に特化した経営に変えたかった」と話す。さらなる規模拡大に備えるのが目的。Xデーへの対応の1つだ。
一方で道の駅などでの販売はこれからも続けることにした。業務用の需要と比べると量がそれほど多くないので精米機の消耗が少なく、機械を更新しないでずっと使い続けることができると判断したからだ。
言うまでもなく、販路の見直しは重い決断だ。長年経営を支えてくれた先でもある。橋本さんは社長になる際、「僕が頭を下げに行くから、やめさせてもらおう」と父親を説得した。そして7月に販売をやめた。
ちょうどその直後に、米価の急上昇が始まった。
仕入れ販売に潜むリスク
橋本さんによると、業務用の精米販売は売り手が農家かコメ卸かを問わず、独特のルールがあるという。もし手元に売るコメがなくなったら、他から仕入れてでも年間を通して売り先への供給を続けるという慣行だ。