「絶対に稼ぐ」と決意して就農
飯田さんは現在、30代半ば。農業を志して会社勤めをやめ、2つの農場で働いた後、2021年に東京都八王子市で農場「Y-FARM(ワイファーム)」を開いた。面積は約1ヘクタールで、翌年8月から出荷を始めた。
ちょうどそのころ、飯田さんに初めて取材した。かつて会社をやめたとき、周囲から「農業はもうからない」と言われたことを振り返りながら、「絶対に稼げるようになると決意した」という就農の経緯を語ってくれた。
当時は農場を共同で経営する仲間が1人いた。ただその人は別の仕事もあったので、ほどなくして農業の世界から離れた。飯田さんはその後、栽培と販売の両面で努力を重ねながら、経営の形をつくり上げていった。
現在の面積は合計で2.5ヘクタール強。八王子市に加え、同じ東京都多摩地域の昭島市と武蔵村山市でも畑を借りている。品目はメインのネギに加え、サツマイモも栽培している。昭島市の畑では体験農園も営んでいる。

飯田祐己さん(八王子市、2022年撮影)
買い手と顔をあわせ、徐々に固定客を獲得
「順調です」。今回取材を申し込んだとき、飯田さんはまずそう答えた。実際に会って聞いてみると、もちろん苦労もあったという。さまざまな人が応援してくれたことで、課題をひとつずつ乗り越えてきた。
難題のひとつは、作業場をどう確保するかだった。ネギは収穫した後、土を払ったり、要らない外葉をむいてから出荷する。普通は機械を使って調整作業をこなす。そのためには当然、電気が通っていることが条件になる。
当初は借りた畑の片隅で、手作業で外葉を取り除いていた。非効率だったが、販路を確保することを優先して出荷を続けた。このあたりの事情は、飯田さんがはじめから長期的な視点で営農に向き合っていることを示す。
このとき手を差し伸べてくれたのが、顔見知りの近隣の農家だった。「うちの家の空いてる場所にビニールハウスを建ててもいいよ」。電気が通った土地が見つからずに困っていた飯田さんに、そう声をかけてくれたのだ。
これで作業が格段に効率的になった。作業場ができると、まず外葉を取り除くための安い中古の機械を買った。次にローンを組んでもっと本格的な機械に買い替えた。飯田さんは「作業のスピードが全然違う」と話す。

東京都昭島市の畑
販路の確保に関していえば、それほど苦労はなかったという。作業の合間に時間を見つけて近くのスーパーなどに営業に行くと、大抵は首を縦に振ってくれた。東京産のネギという珍しさが強みを発揮したのだ。
作戦が外れたこともある。東京産であることをアピールするため、「東京生まれ」と書いたシールをネギの袋に貼ってみた。シールにはQRコードもプリントして、農場のホームページに誘導するように工夫した。
やってみてわかったのは、思うほど売り上げに結びつかないという点だ。効果がそれほどないにもかかわらず、シール代やシールを貼る手間がかさんでいたあまり効率的ではないと気づき、今年に入る前にこれはやめた。
むしろ意味があったのは、スーパーの地場野菜コーナーに顔を出し、買い手とじかに言葉をかわすことだった。それを繰り返すうち、少しずつ固定客が増えていった。売り場が近くにある都市近郊農業の強みだろう。
事業拡大へ雇用を開始
飯田さんにとってもうひとつ大きかったのは、師と仰ぐことのできる先輩農家に出会ったことだ。ネギを栽培する山形県の農業法人のトップで、自社の経営だけでなく、全国のネギ農家の応援に力を入れている人だ。
この農業法人が埼玉に進出する際、飯田さんは事前に連絡して会いに行き、その後、何か課題に直面したとき相談するようになった。相手はそれをこころよく受け入れてくれた。テーマは栽培から経営までさまざまだ。
経営に関していえば、1年ほど前にスタッフを雇用した。これから人員をさらに増やすことをみすえ、彼らに住んでもらうために八王子で住宅を購入した。平屋建てで5部屋ある格安の物件が見つかったからだ。
あえて住宅まで買ったのは、いずれ特定技能や技能実習の外国人を雇うことを考えているからだ。外国人の雇用は、山形の農業法人のトップのアドバイスだった。外国人に働いてもらうには、寮が必要だと飯田さんは考えた。
いまは最初に雇用した日本人のスタッフに住んでもらっている。まだ経営を軌道に乗せる途上なので、スタッフが期待するような水準の給与を払うのは簡単ではない。そこで、安い家賃で住める場所を提供したのだ。

スタッフの二瓶侑樹(にへい・ゆうき)さん㊨と
5年以内にまず10ヘクタールに
「退くことはいっさい考えていない」。これからの展望についてたずねると、飯田さんはそう答えた。