高倉ダイコン開発者と継承者
大根洗いで川が真っ白に
「ここと畑との間に谷地川という川があって、みんな昔はそこで大根を洗ったんだ。すると表面の皮がすれて川の水一面が白く泡立つんだよ」。
約30名のツアー参加者を前にそう語るのは、石川町在住、1939(昭和14)年生まれの立川太三郎(たちかわたさぶろう)さん。毎年このあたりの農家が大量の高倉ダイコンを作っていたのも昔話。立川さんは半世紀を超えて作り続けてきた、唯一残った生産者です。
みの早生と練馬細尻大根を交配
この大根を開発し、固定種にしたのは原善助(はらぜんすけ)という人です。
1921(大正10)年頃、滝野川(現・北区)の種苗商から買った「みの早生」のタネを練馬細尻大根の間に、一作おきに崑作。自然交配してできた大根から自分好みのものを選抜し、四半世紀後、品種改良の末にできたのが高倉ダイコンです。
昼は日干しに、夜は寝床に
水分を抜き、芯を柔らかく
朝、畑で収穫した大根を運び、すぐに一皮むけるぐらい洗う(現在は専用の機械を使用)と干した時によく乾くのだとか。洗った大根は一つのすだれに10本ほど縄で結って吊るし干しします。この日はきれいに晴れて、ゆるやかに風が吹いく絶好の干し日和でした。
「日が暮れる頃になると、大きいのを下に、小さいのを上にして寝かせます」
その立川さんの説明通り、干場の地面にはゴザや布団・毛布が敷かれています。吊るしっぱなしだと芯の部分がなかなか柔らかくならないため、夜は重なって就寝です。翌朝、敷物はおねしょをしたようにぐっしょり。それだけ水分が抜け、芯がしんなりしていきます。
収穫・洗い・日干しの工程を繰り返す
こうして昼間は日干しにし、夜は寝かせる作業を1週間ほど繰り返します。
大根の重さは1本につき1.5~2キロなので、すだれは約20キロ。これを毎日いくつも上げ下ろししなくてはならないので、かなりの重労働です。干し上がった大根はだいたい6~7割の重さになっています。
今年の出荷量は約5,500本。それだけの量を一度に干すことはできないため、1回につき1週間かかる工程を、出荷量に応じて何回か繰り返します。収穫したものを干す前に数日間貯め置きすると、固くなって味や食感が落ちてしまうためです。
織物職工のお昼のおかずに
工場の食堂の漬け樽へ直行
干し上がった大根はこれもまた時間を置かずにすぐに出荷。かつては八百屋が受け取り、周囲の織物工場へ運んだそうです。昔この辺りは養蚕が盛んな地域で、横浜と東京を結ぶシルクロードと呼ばれ、大正・昭和期には織物工場がひしめいていました。
それらの食堂には大きな漬け樽があり、大根を持ってきた八百屋は糠や塩を使って、おかずとなるたくあん漬けをその場でこしらえたそうです。
高倉ダイコンが重宝されたのは、そうした重要なニーズがあったからで、他にも長野県の諏訪や岡谷の工場、都心方面では新宿・淀橋にあった市場などにも数多く出荷されました。
何十年も続く注文とタネ取り
高度経済成長時代を経て織物工場が減り、安定供給・大量生産に向く交配種(青首大根など)が市場に出回るようになると、干し上げる手間ヒマが大変な高倉ダイコンの生産者は激減。しかし味の記憶は絶えたわけではなく、立川さんには毎年、注文が入ります。
「『美味しかった、来年も楽しみにしているよ』と言われると、やめるわけにいかなくて」。
そう言って立川さんは、5,000本以上の大根から、肌がきめ細かく柔らかそうなタネ取り用のものを10本ほど選び出します。それらを再び畑に植えて春に花を咲かせ、数千粒のタネを収穫。翌年の9月にまた種蒔きをするのです。
すべて受注生産制で
積極的なPR活動と江戸東京野菜の知名度が上がったせいか、高倉ダイコンは近年注文が急増しています。
この干し大根は、作付けの段階からすべて受注生産制。品質を守るため、収穫して、洗って、干して、干し上がったらすぐに出荷するという、昔ながらの丁寧な作り方を守り通しています。
冬の旬の季節にしか手に入れられない高倉ダイコンは、今や需要に生産が追いつかない希少な野菜になっているのです。
100年に及ぶ歴史を持つ伝統野菜に未来
ツアー、畑を見学し、懇親会を兼ねた食事会で全員、高倉ダイコン料理を堪能しました。昨年2017年は3回実施しましたが、いずれも大好評で、回を追うごとに参加者が増え、江戸東京野菜のファンも増え続けています。
そして企画・主催の多摩八王子江戸東京野菜研究会代表・福島秀史(ふくしまひでふみ)さんは立川さんに加勢し、今年からもう一人の生産者として高倉ダイコンを作り始めました。近代日本の発展を支えた働き手たちの栄養源。100年に及ぶ歴史を持つ伝統野菜に、再び未来が開け始めています。