「かっこ悪くて、汚くて、儲からない」農業への使命感と情熱
農家の長男に生まれ、家業を継ぐという使命感から6歳の時に農業をすることを決めた今野さん。小学生の頃は、学校から帰ってくると畑仕事を手伝い、その使命感を持って農業高校に進学。ところが多感な年頃になるにつれて、6歳の頃の純粋な気持ちは薄れ、“農業はかっこ悪い”という気持ちが芽生えていました。
改めて農業に向き合ったのは17歳。卒業後の進路について決断する時でした。農業に後ろ向きな気持ちを抱いた理由は、「かっこ悪くて、汚れて、儲からない」から。決して農業が嫌いになったわけではありませんでした。
「かっこよくて、綺麗で、儲かる農家になろう。そして、目指したいと思われる農家になろう」そう心に決めた時、使命感は情熱に変わっていました。大学進学を決め、卒業後は農業関係の経験を積むために農業改良普及員として就職します。そしてついに、31歳の時に独立就農に踏み出しました。
情熱を持った若手農家を襲った大きな壁
今野さんは自らの目指す農家になるために当初から決めているスタイルがあるといいます。それは『価格の決定権を持つ』『契約栽培』の2つです。価格の決定権を持つためには、市場外流通をしなければなりません。自ら卸先を開拓し、高品質の物を作り、希望の納期に決められた量を出荷をする。それが実現できる作物は何だろう──。
そこで出た答えが花苗でした。設備のない環境で1人で始めるため、マーケットの要望に応え続ける野菜栽培は難しいかもしれない。しかし、花苗であれば週1回の出荷で良い。多数の店舗との契約が狙えるホームセンターに的を絞り、今野さんの農家としての人生がスタートしました。
最初は出荷量に限界があるため、地元の花苗生産者からも仕入れ、ホームセンターへ販売する方法をとりました。ところが、仕入れと供給のバランスが難しく、仲間のためにと買い取るものの、売れないと在庫を抱えることになり、経営が圧迫されます。次第に、仲間のために仕入れ続けたい気持ちと、自身の経営状況の狭間で葛藤するようになりました。そんな時に手を差し伸べたのが、宮城フラワーパートナーズを立ち上げるきっかけとなった、石川英樹氏と加藤智也氏でした。これまでの今野さんのやり方を立て直し、“流通を変える”という共通の志を実現するため、2012年1月に宮城フラワーパートナーズとして再出発を果たします。
夜中まで1人で働くも、トラブル続き
再出発をした今野さんは、寝る間を惜しんで働きました。複数のスタッフを抱えながらも、一から十まで指示を出し、チェックをし、技術や経験が求められる作業は必ず自分で行いました。
高みを目指すからこそ、それを人に求めてはいけない。自分が頑張ればいいのだから──。
ところが自分に責任と業務を課すほど仕事は回わらなくなり、トラブルも増えるようになっていきました。「この状況はまずい」そう気がついた時には、今野さんの業務の約8割がトラブル対応に割かれる状態にまで陥っていました。そんな時、知人の紹介でふと参加した講演会が、今野さんに突破口を与えてくれるのです。
農業と共に人を育てたい。最終目標は事業継承
人生を変えた講演会は、元アップルコンピュータ株式会社の社長 山元賢治氏のリーダー論でした。
「社長」とは、未来のために仕事をする役割であること、そのために先々の計画を立てる必要性があることを学ぶと、自分がいかに目の前の業務に追われていたかが客観的に見えてきたそうです。
人を育てると言いながら全く育てられておらず、自分のスキルだけを上げている。結果、自分にしか分からない仕事が多すぎてスタッフに任せられない。
そんな悪循環を変えるために、全てデータ管理をし、数値で指示を出す方針に切り替えました。
中長期的な指示を出すことで、これまでスタッフから逐一聞かれていた「次に何をすればいいですか?」という質問がなくなりました。また、スタッフごとに得意分野を見極め、業務ごとにリーダーを立てることで、スタッフが自ら考えて行動するようになり、徐々に組織として機能するようになっていきました。
山元氏のリーダー論を実践するようになってから3年が経った時には、業績は低迷期の2倍に跳ね上がっていました。
「リーダー論を学び、自分の言動を変えた転機が45歳の時です。遅すぎますよね」カラリと笑い飛ばす今野さんの顔からは、これまでの苦労は感じとれません。それは、既に次なる目標を持ち、前に進んでいるから。
今野さんの次の目標は、『情熱がある人を育て、能力がある人に事業を託すこと』だといいます。
今野さんと後継者の情熱が融合した、未来の宮城フラワーパートナーズに期待が膨らみます。
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