第二話「あなたの時間をください」
達郎と合流したのは、神楽坂のワインバーだった。先輩に連れて来てもらって雰囲気よかったからここに行こう!と意気揚々と店を指定してくるところがいかにもザ・かわいがられる新入社員っぽく、達郎らしいなあと地図アプリを頼りに神楽坂の坂道を歩きながらあかねは思った。
扉を開けるとぱっとこちらを振り向く、笑顔の青年がいた。
「よっ! お疲れ!」
まだ少し着慣れていない紺色のスーツに、きちんと整えられた短髪。スツールに座る背筋はしゃんとまっすぐに伸び、視線はまっすぐにあかねに向けられている。達郎はどこからどうみても「好青年」としかいいようのない出で立ちだ。卒業して3ヶ月。社会人として好調なスタートを切っているような眩しさ、初々しさ。そして少し背伸びをしながらも、希望に満ち溢れているように見えるその姿に、あかねは一瞬目を細め、たじろぐ。自分はそちら側に行けなかった。納得して退社したつもりだったが、わずかながらに残る、うまく会社に馴染めなかった自分への劣等感がむくりと顔を出した瞬間だった。
達郎との出会いは、大学1年の授業だった。1番後ろの席であかねが授業を受けていると、終わりがけに隣にすっと座ってきた男子、それが達郎だった。
「ねえ。お願いがあるんだけど」
横からの小声を、あかねは聞こえないふりをした。ちらりと見たぶん、背が高くて垢抜けた、今時の風貌をした男の子。どうせ飲みサーに所属し、朝までくだらない飲み会をしていて二日酔いで遅刻したかなにかだろう。彼らと関わってメリットになることは、特にない。何事もなかったかのように授業を受けているあかねの態度に少し戸惑った彼は、今度はもう少し丁寧な口調で言った。「お礼はきちんとするから、少し聞いてくれないかな」
前を向いたまま、あかねも小声で言い返す。「お礼ってなに?」
少しホッとしたように彼はすぐ答える。「ランチ。ランチおごるよ。ほら、駅前の定食屋でも、ハンバーガー屋でも、ラーメンでも、なんでも」
あまりの必死さに、あかねはぷっと吹き出した。
「それならいいよ。なに? 頼みごとって」
「俺、この授業1回も出てないんだよね。今までのノート全部見せてもらえないかな?」
「いやいや、1回のランチじゃ割に合わないでしょ!」
思わず出してしまったまあまあの大きさの声で、前の列に座っていた数人が振り返る。
「まじかよ。めっちゃ食うじゃん」
呆れる達郎を横目に、あかねは右手を挙げ、「チャーハン1つください!」と叫んだ。気になってはいたが、1人でも、女子同士でも入りづらかった、古い町中華。餃子と、青菜炒め、中華そばが並べられただけでいっぱいになってしまう、いかにも年季の入った、そしてすこしべたべたする机を挟んで、あかねと達郎は顔を見合わせた。
話をしてみると、達郎は面白い男の子だった。幼少期をカリフォルニア州で過ごした彼は、中学3年生で日本に戻ってきた時、好きだったお店や食べ物が軒並み存在していないことにひどくショックを受けた。絶対日本にあったら流行るのに。母親に頼んでわざわざ遠くの輸入品が取り揃えられたスーパーで、現地の何倍もの値段になっているものをカートに入れる時、いくら探しても日本では見つからないとわかった時、彼は心の中で何度も呟いた。その思いは年々強くなり、父親に頼んではカリフォルニアに行っては、自分の好きな店に「日本に店を出すべきだ」と言うようになった。高校生のかわいい戯言は彼らにとっては最高の褒め言葉として捉えられ、「ありがとう、そんなに好きでいてくれて」とサービスされて終わっていた。地元のメーカーには何度も何度もお問い合わせフォームからメールを送ったが、あまりにも多いことを呆れた広報から「アドバイスをありがとう。参考にします」という数行の返事が返ってきたのみだった。それが、なぜか彼に火をつけた。
大学生になったから時間はあるし、違うアプローチがあると思うんだよね。今はバイトをたくさんしてお金を貯めつつ、食品業界の人と会っては構想を練ってるんだ。ま、だからあの授業は出れてないってわけ。
最後の言い訳を聞き流しつつも、あかねは少し感心していた。なんだ、ただの飲みサーのチャラ男じゃなかったんだ。そう思うと、今まで人にはあまり言っていなかったことが、不思議と達郎には言えた。1年ほど前から、アクセサリーを作ることにハマり出したこと。それを工夫をして撮影SNSに上げ続けていたら、結構なファンができたこと。今はWEBショップでちょこちょこと販売をしていること。家の中に撮影スペースを作り、休みの日には材料を買いに行ったり、他のアクセサリーショップの研究をしたり、結構真剣にやっていること。そしてそれを、大学になってできた友達には言えていないこと。なんとなく入ったサークルは、辞める気はないけれど、常に人とつるんでいたいとは思わないこと。
「俺も一緒だよ」達郎は話を聞くとまっすぐあかねの目を見つめて言った。
「現に俺、サークル入ってないし。年が離れた兄貴に言ったら、俺たちの時は大学生になったら自動的にサークルに入るもんだったし、そこで同期や先輩、後輩ができて、みんなで一緒にイベントごとをやって、まあちょっとした社会の入り口みたいなもんを学んでいったんだって言われたんだけど。同じ方向を向く仲間は欲しいけど、なんとなしに集まったその他大勢の人はいらないんだよな。俺らは、もう、個の時代を生きてるんだ。最近の若いもんはって言われても構わない。あかねも、まわりに、やっていることをいちいち報告しなくたっていい。好きなことを、ただやって、共感してくれる人たちだけを見てていいと思うよ」
そんな出会いから始まった2人の仲は、いい意味で刺激し合う関係だった。大学を卒業すると、カリフォルニアのブランドをもっと日本にとりいれたいという夢を叶えたいと、達郎は商社に入った。体育会系でしょ?大丈夫なのと心配するあかねに、大丈夫、帰国子女キャラって強いんだぜなどと達郎は嘯(うそぶ)いたのだった。
久しぶり。とあかねはスツールに腰掛けた。達郎は話が聞きたくてたまらないと言うような顔でこっちを見ている。まあまあ、まずは飲んでからとメニューを開くと、この店がカリフォルニアワインの専門店だとあかねは気づいた。相変わらず、カリフォルニアバカね。と心の中で思いながらも、その達郎のブレなさやまっすぐさが、今は妙に心をずきりと傷つけた。
一通りお互いの報告を終え、懐かしいとは言いながらもつい数ヶ月前まで送っていた学生時代の話に花を咲かせていたら、気づけばワインのボトルは2本も空いていた。
終電の時間も近づき、店の中の客もほとんどがはけていた。
「で、どうすんのこれから。まだ次の会社決まってないんだろ? ニートじゃん!」
げらげら笑う達郎の横で、あかねはカウンターに両肘をつき、大きなため息をついた。
「せっかく辛い就活を終えて入った会社でこのザマだよ。もちろん後悔してないけど、なんか少し自分にがっかりしちゃったよ。あーあ。なんか1ヶ月くらい、東京離れて、旅行したりしよっかなあ」
すると、カウンターの隣から、か細い声が聞こえた。
「その1ヶ月、私にいただけませんか」
声のする方を見ると、70歳ぐらいの、線が細くそれでありながら肌は褐色に日焼けのした、白いポロシャツをきた男性が、あかねをじっと見つめていた。
「……というと?」
普段は知らない人と話すのはあまり気乗りのしないあかねも、この奇妙な状況に飲まれていた。
「1カ月でいいんです。あなたの時間を私にください」
それが、虎さんとの出会いだった。
【作者】
チャイ子ちゃん®️ 外資系広告代理店でコピーライターをしつつ文章をしたためる。趣味は飲酒。ブログ「おんなのはきだめ」を運営中。 おんなのはきだめ:chainomu.hateblo.jp Twitter : @chainomanai |
【イラスト】
ワタベヒツジ マンガ家。東京藝術大学デザイン科出身。 マンガ制作プラットフォーム「コミチ」にて日々作品をアップ中。 作品ページ:https://comici.jp/users/watabehitsuji Twitter:@watabehitsuji |