第三話「イチゴへの思い」
「1ヶ月でいいんです。あなたの時間を私にください」
突然の男性からの提案に、思わずあかねと達郎は顔を見合わせた。あかねはその時初めて、店内に薄くBGMが流れていることに気が付いた。ドビュッシーの月の光。美しい旋律が、ここから始まるなにか新しいことを予期させるかのように怪しく店内に響き渡った。
話はこうだった。
男性の名前は、虎一郎(こいちろう)。だが昔から虎さんと呼ばれているので、そう呼んでもらって構わない。彼はそう言った。
虎さんの家は、S県S市で代々続くイチゴ農家だった。広大な土地に並ぶたくさんのビニールハウス。物心ついた頃から家の手伝いでイチゴ栽培に携わってきた。週末は友達と遊ぶことよりも、ハウスでイチゴの世話をすることを優先しなければならなかった。だが虎さんにはそちらの方が都合が良かった。体の線が細く、背も小さな虎さん。同世代の子供たちと野球をしたり駆け回ったりするよりも、静かなビニールハウスの中でイチゴ達と向き合う方が、性分には合っていたのだった。
高校を卒業してからは、本格的にイチゴ栽培にのめり込んだ。見合い結婚をした妻とは、結局子宝には恵まれなかった。だが、虎さんはそれでもよかった。毎年毎年、手塩にかけたイチゴ達が全国へと出荷して行く。つやつやと光り輝くイチゴたちをトラックに積み込み送り出す時、それはまるで親元を離れ巣立って行く子ども達の様子を見届けるような気分だった。
だが虎さんはよくても、跡取りが問題だった。兄弟のいない虎さんに子どもができないとなると、後継者を探さなければならない。ちょうど、70歳になる手前でもあった。そろそろ若い者に技術を継承し育てていくのもいいかもしれないと思っていた矢先のことだった。
前代未聞の台風が、S市を襲った。川は氾濫し決壊し、街全体を飲み込んだ。幸い、もともと人口が少ないことや、その日は地域の祭りで多くの住民が小学校に集まっていたことから、住民の全員が無事だった。しかし、高台に登った彼らが目にしたのは、自分の子供のように大切にしている作物達が、畑もろとも水に飲み込まれ流されて行く様子だった。
あんなに頑丈なつくりのビニールハウスが、大きなプラスチックのゴミのように、ぷかぷかと流れて行く。「ああ……」。自分の口の中から、声をだしているつもりもないのに、音にならないうめき声のようなものが漏れ出ていた。
心にぽかりと開いた穴は、しばらくは塞がらなかった。ビニールハウスを、全て失った。それは家族の歴史を全て失ったことに等しかった。農業を営む住民の半数が街を去った。いい機会だからとすっかり農業から離れる仲間もいた。
「虎さんもさ、新しいことなんか、はじめてみてもいんじゃないの」
「70歳っていっても、まだまだ元気なんだからさ」
そう、仲間から言われるたびに、「そうだねえ、しばらくはゆっくり考えてみるよ」などとのらりくらりかわしていたが、心の中では途方に暮れていた。
「私に、イチゴ作り以外になにができるっていうんでしょうか」
あまりにもふさぎ込んでいた虎さんを心配して、奥さんのまさみさんは虎さんに旅行を提案した。こんな時こそ、一回日常のことを忘れた方がいいのよ。
まさみさんに言われるがままに温泉旅館にたどり着き、露天風呂に入り、ふうと深い息を吐いた時。虎さんは自分があの台風の日からずっと体に力を入れて生きていたことに気づいた。深く息を吸うと、生暖かい湯気が、むっと肺の中に入ってくる。目を閉じ、鼻が水につくくらいに温泉に浸かる。「私は、過去に囚われすぎなんでしょうか」
宿の懐石料理に舌鼓を打ち、久しぶりに飲んだ酒で気分もほぐれた矢先に出てきた水物に、虎さんは思わず固まった。それはそれは、みずみずしく大きなイチゴだったのだ。
「綺麗なイチゴだね。どこのやつかな」そう言いながら口へ運ぶフォークは、少し震えていた。
「あなた」
まさみさんの声で顔を上げると、まさみさんは大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら言った。「あなた。もう一度、がんばりましょうよ。イチゴ。お父さんとお母さんのためにも。私も手伝いますから。ねえ」
うんうん、虎さんは頷いた。その時初めて、自分も泣いていたことに気づいた。
私には、これしかない。何度失っても、これをやっていくしかないんだ。
虎さんがまず始めたのは、手伝い探しであった。やはり若い力が欲しい。とはいえ、街では皆が自分の畑のことでいっぱいであったし、多くの若い夫婦は隣町や都心に移ってしまっていた。そんな時に虎さんが知ったのが、都会から農業に興味のある若者を呼び寄せるということ。そんなに都合よくやって来てくれるもんかねと思いながらも、さっそくセミナーが開催されるということで東京までやってきたのだった。そしてその帰りに立ち寄ったバーで、達郎とあかねのコンビと隣同士になったのだった。
「で、こいつは何をすればいいんですか?」達郎が間髪入れずに虎さんに聞く。
「ちょっと! やめてよ。やるって言ってないでしょ」あかねは思わず達郎の腕を叩いた。
「そうですねえ、私たちが全部教えるんで、手伝っていただければ、もう十分ですよ」
申し訳なさそうに、虎さんは言った。
あかねの中では、作物をつくることはそこまで遠い存在ではなかった。共有の畑付きシェアハウスが誕生したり、ロハスブームや丁寧な暮らしに憧れる人が、少し郊外に引っ越し、家庭菜園を営む様子はSNS上でも見ていた。東京の人の多さに辟易した人が、遠い田舎で自給自足の生活をしている様子も話題になったりした。また観光として1日農業体験をしたり、ギャル×農業や、アイドル×農業など、盛り上げようと躍起になっている人が少なからずいるのもわかっていた。
まあ、1ヶ月くらいなら、ちょっとした旅行体験気分でできるし、元IT系女子がガチで農業やってみたってブログ書いても面白そうだし。なによりも私、仕事辞めたし。
「1ヶ月なら、いいですよ」
あかねの言葉に、虎さんの顔はぱあと明るくなった。「ほ、ほんとうですか」
「はい、いっしょに美味しいイチゴ作りましょう!」
握手を交わす2人の横で、達郎が静かに言った。
「いや、そんなんじゃダメだ」
「え?」
「やるからには、日本一のイチゴブランドにならなきゃだめだ! よし、俺は東京で仕事あるからガッツリ手伝えないけど、週末とか利用して、俺も協力します!」
「えええ、達郎、まじで!?」
今度はぽかんとするのは、虎さんのほうだった。
【作者】
チャイ子ちゃん®️ 外資系広告代理店でコピーライターをしつつ文章をしたためる。趣味は飲酒。ブログ「おんなのはきだめ」を運営中。 おんなのはきだめ:chainomu.hateblo.jp Twitter : @chainomanai |
【イラスト】
ワタベヒツジ マンガ家。東京藝術大学デザイン科出身。 マンガ制作プラットフォーム「コミチ」にて日々作品をアップ中。 作品ページ:https://comici.jp/users/watabehitsuji Twitter:@watabehitsuji |