上富良野町はホップとラベンダーの歴史ある産地
生産目的で初めてホップが栽培されたのは1877年。場所は北海道札幌であった。その後も北海道は冷涼な気候を好むホップの主産地であり続けたが、1968年をピークに生産量は減り続けている。現在国内の主産地は岩手県と秋田県であり、北海道ではわずか数戸の農家が栽培を続ける程度となってしまった。
生産者が4戸に減りながらも産地を守っている上富良野町。広大なラベンダー畑でも知られるこの町で、ホップが契約栽培されるようになったのは1926年のこと。サッポロビールとアサヒビールの前身である大日本麦酒(ビール)が上富良野ホップ園を開設してからだ。
日本のビール会社が主原料であるビール大麦とホップの育種をやめていく中で、サッポロビールだけは今も品種改良を続けている。ホップの開発拠点は上富良野町にある原料開発研究所の北海道原料研究グループだ。
2010年以降、サッポロビールが現在品種登録しているのは8品種。これまでに品種登録した数も合わせると16品種と、育成品種数は日本のビール会社の中で他を圧倒している。このうちいま日本で生産されているのは、前身である大日本麦酒が1919年に育成した「信州早生(わせ)」を含めて7品種もある。
ビール好きなら近頃その名前を耳にする機会が増えたであろう「ソラチエース」は、サッポロビールが品種登録した最初の品種である。上富良野町で育成され、1984年に品種登録された。だが当時は、香りが個性的過ぎると判断されたため、育成されて以来長く国内で生産されることはなかった。ところがアメリカで起きたクラフトビールブームにより、アメリカではヒノキやレモングラスのようなその香りにほれ込むビール醸造家が多く現れ、一躍大人気品種になった。そして2020年、育成から36年目にして、収量が劣るという欠点がありながらもついに上富良野町で本格的な国内生産が開始されたのである。
国内市場向けにホップの品種改良を続ける意義
競合ビール会社が次々とホップの育種をやめていく中、今も上富良野で積極的な品種改良を続けているサッポロビール。安価で高品質な輸入原料を用いても、安くておいしいビールを造ることはできる。その中でサッポロビールが独自路線を貫く理由は何か。ホップの品種改良と原料調達に携わっている鯉江弘一朗(こいえ・こういちろう)さんに聞いた。
「弊社が次々と品種を出してきたのは、同じ製造方法でもホップの品種の違いがビールの香味に決定的な影響を及ぼすからです。さらにホップは比較的生産量の少ない品種でもビールとして商品化できるというメリットもあります」
品種改良を継続するには安くはない経費がかかる。競合会社が撤退していく状況下で、育種を継続できている理由は何なのだろうか。
「正直申し上げて、これまで何度も継続の可否が議論されてきました。しかし最近では、クラフトビール人気の高まりが追い風になり、これまで先輩方が長く蓄積してきたホップ遺伝資源ストックから多様な品種が生み出せることに脚光が当たってきています。個性的な味わいのビールを求めるお客様が増えてきてくれたおかげで、さまざまな風味をもたらす個性的な品種の価値が見直されたと言えますね」
ビールに苦みと香りを与えるホップ。意外なことに以前は苦みばかりが注目され、香りに関心が集まるようになったのは、近年の話なのだそうだ。
「手前みそですが、ホップの香りの力は本当にすごいと思います。たとえば『フラノマジカル』は華やかなマンゴーの香りがするんです。フラノマジカルを使ったビールを飲んだ方が、お世辞抜きで『マンゴーのような香りでおいしい』と言ってにっこりされた時の表情は忘れられません。我々のホップ育種やホップの新品種が新たな喜びを生み出したのかと思うと、感慨深いものがありました」
国産ホップの栽培面積は、この40年で5分の1にまで減少した。ホップ農家は事業の継続性という観点で、このような状況下でも品種改良を続けている同社に対して、やはり安心感を抱くのだそうだ。
「ありがたいことに、弊社がお願いする新品種を生産することは、家族や周囲の人に自分の存在意義を示せる、製品化されて消費者に明確な価値を提供できているという意味でも、少なからずやりがいと生きがいにつながっているようです。それだけに、何としてでも生産者に喜んでいただける品種を生み出したいという気持ちは強いです。生産者に協力いただいて一緒に新品種栽培に挑戦するのは、まさに当社で取り組んでいる『協働契約栽培』の『協働』の極みですね」
また、同社は栽培の省力化にも取り組んでいる。日本では、「信州早生」とその突然変異である「ゴールデンスター」「キリン2号」「かいこがね」、これら「信州早生系」の品種が今に至るまで主力品種として長く生産されてきた。信州早生系の品種は、高さ5~6メートルのホップ棚上部まで伸びたつるを下に3メートルほど下げる「つる下げ」という作業がある。ビールの原料となる雌花「毬花(きゅうか)」の生産量に大きな影響を及ぼす短期集中型の重労働であるため、人手確保もあわせてホップ農家にとっては最も頭を悩ませる作業の一つだ。
「つる下げが必要な信州早生とゴールデンスターを、つる下げ不要な新品種に切り替えを進めていくことも重要な課題でした。『リトルスター』はつる下げのいらない最初の多収品種です。また、ゴールデンスターをソラチエース、フラノスペシャルおよびフラノマジカルに切り替えたことにより、上富良野町の契約農家はつる下げをしなくて済むようになりました」
サッポロビールの契約農家は上富良野と岩手県北部および青森県にある。ホップ農家も高齢化が進む一方だが、上富良野の4戸の生産者は40代2人、60代2人と若いのが特徴だ。
「ホップは栄養繁殖性(※)の作物であり、ウイルス病に侵されるリスクがあります。弊社では新品種を育成するだけでなく、ウイルスフリーの健全な苗を生産者に無償で供給する体制を整えています」
※ 植物の一部から新たな株をつくることができる性質。
これまで10品種の育成に関わってきた鯉江さん。一番のお気に入り品種は、ソラチエースの子供である「ホクトエース」だ。針葉樹を伐採した時のような鮮烈な香りがたまらないからだそう。ホップ農家のため、またビールファンのため、香りと収量ともに優れた新品種育成に向けて、鯉江さん達の挑戦は続いている。
早期退職後にホップ専業農家に
上富良野町ホップ生産組合の組合長である稲葉彰(いなば・あきら)さんは、サッポロビールを退職してホップ専業農家になった。稲葉さんはもともと同社でホップの育種家として活躍してきた人。リトルスターとフラノスペシャルを含む複数品種の筆頭育成者でもある。
「ホップ専業農家になった理由は2つだね。まずは会社員としてホップの仕事をやり切れなかったという思いが残ったから。もう一つは、上富良野で3人にまで減ってしまったホップ農家を増やしたかった。でも、もし子供が独立していなかったら絶対にやらなかったな」
そう話す稲葉さんは農場に設置した選花機と乾燥機を見回しながら、「就農時の投資額は退職金で賄えるぐらい」とぶっきらぼうに答えてくれた。
まずは、品種を生み出し普及させるブリーダーの立場から、農産物を生産、供給する農家の立場に変わった時の心境について尋ねてみた。
「自分のブリーダーとしての経験をどのようにしたら生かせるか。こう考えた時に農家になるのが一番だと思ったわけ。こうすれば上富良野でホップを生産して儲かるというマニュアルを残したいね。新品種を出しても普及しないというのが一番つまらない。だから生産するなら自分が育成した品種にすると決めてたし、逆に自分の品種を生産させてもらえないんだったら、ホップ農家にはならなかったかもしれない」
稲葉さんがメインで生産しているのはリトルスターだ。自分が手がけた品種の中で、性質的にもっともバランスがよいからだそう。
「実際に自分の品種を生産してみての印象だって? 衝撃の一言。『何これ? こんなはずじゃない!』って感じ。自分がこの地で育成した品種だし栽培するのも同じ環境。簡単に作りこなせると思っていたけど、そうはいかなかった。リトルスター登録出願後の2004年に日本に入ってきて広まったうどんこ病にめちゃくちゃ弱いことがわかって、全然ダメじゃんて」
「ダメじゃん」の一言は、自信を持って世に送り出した品種の欠点を目の当たりにした自分に対しても向けられていた。稲葉さんはアメリカ農務省が育成した品種「カスケード」も栽培しているのだが、カスケードはうどんこ病にかかりにくい、とカスケードの育成者に対してライバル心を見せた。
「自分が作りたい品種を栽培できるのが農家の楽しみ」「アメリカで育成されたフレーバーホップの人気新品種を作ってみたい」と語る稲葉さん。退職前よりも一段とホップの魅力に取りつかれてしまっているようだ。
本物の地産地消ビールを体現した上富良野町の取り組み
上富良野町には本物の地産地消を体現したビールがあると聞き、上富良野町役場を訪問した。話を聞かせてくれたのは、農業振興課主幹の山内智晴(やまうち・ともはる)さんと主任の大田健司(おおた・けんじ)さん。
「上富良野はホップとビール大麦の両方を契約栽培している国内唯一の自治体なのです。ある時、農協、商工会、観光協会の3者が集まった際に、自然発生的に町のイベント用に上富良野産のホップとビール大麦を使ったビールを造ろうという話になったと聞いています」(山内さん)
言われてみると、確かに国内でホップとビール大麦の両方を生産する産地は耳にしない。2008年に生まれた「まるごとかみふらのプレミアムビール」は、町を代表するお土産品に育っていった。
「まるごとかみふらのプレミアムビールは、JAふらののホップ部会と大麦部会の組合員さんの協力があるから続けられている企画です。ちょうど地産地消のブームに乗って消費者の注目を集めたこともあり、農家さんの自負につながっていると思います」(大田さん)
当初ビール大麦は「りょうふう」だったが、作付けする品種が「きたのほし」に変わっている。きたのほしは風味や泡もちを劣化させる酵素を持たないのが特徴で、サッポロビールが育成した品種だ。また、ホップについてもゴールデンスターからフラノスペシャルとフラノビューティーのブレンドに変わった。こちらは香りをより華やかにする目的での変更であった。これらの過程は、Webサイトでも「唯一無二・進化し続けるクラフトビール」とうたって発信している。
まるごとかみふらのプレミアムビールは町内でしか買えず、すぐに売り切れてしまう人気商品。ふるさと納税の返礼品でも、Webサイトなどでメロンを見に来た人がこのビールに流れるケースが結構あるのだそうだ。地産地消だけにとどまらず、品種改良の成果を体感できるという切り口は、今後加工食品の新たなPR手法となっていくかもしれない。