平松農園|仙台(@nouenhiramatu) 富山県出身の平松希望さんが、仙台市沿岸部の東日本大震災被災地で営む農園。Twitterフォロワー4691人(2021年11月7日時点)。経営面積1.5ヘクタールのうち、0.9ヘクタールは仙台市集団移転跡地利活用事業に位置付けられ、農業生産の他、新規就農定着支援、食農教育、農福連携、CSA(地域支援型農業)に取り組む。自身の経験に基づく「就農計画に必要な情報!」など役立つ情報をnoteで公開中。 |
震災遺構の小学校の隣にある農業用ハウス
仙台市中心部のJR仙台駅から車でおよそ30分。2019年に開通した巨大なかさ上げ道路を越えると、今は震災遺構として一般公開されている「仙台市立荒浜小学校」があります。取材に訪れた月曜は、あいにく週に一度の休館日。ただ、校門の外から遠目に眺めても、校舎2階のベランダの柵がグニャリと曲がっていることが分かり、津波の恐ろしさを感じます。
辺りはまだ復旧工事の最中で、工事車両の音が響いていました。以前はこの場所にも住宅が並んでいたそうですが、今は仙台市の「集団移転跡地利活用事業」のために利用されることになっています。平松農園の農地はまさにこの集団移転跡地にあり、平松さんの営農活動もこの事業の中に位置付けられています。メインのビニールハウスはフェンスを挟んで荒浜小と隣り合っていて、まさに目と鼻の先という距離感です。
外の地域からこの場所に足を運ぶと、なんとも言えない重々しい空気を感じます。平松さんとハウスで対面してすぐ、感じたままにそう伝えると、「そうですよね、よく分かりますよ」と優しく応じてくれました。そして、平松さんはこう続けました。「復興支援ボランティアとして視察ツアーのアテンド(案内)役をやっていた時、荒浜の集落に入る交差点を境にバスの中の空気が一変するんです。突然住宅がない異様な光景を目の当たりにするので無理もないですが」
平松さんは大学進学を機に、出身地の富山県から仙台市に来ました。東日本大震災が発生した2011年3月11日14時46分。第1志望だった東北大学農学部への進学が決まり、入学手続きとアパート探しのために、ちょうど仙台市を訪れていた時でした。ですから平松さん自身も、農地がある場所が以前どのような姿をしていたかは、写真や映像でしか見たことがありません。今でこそ被災地の将来を担う一人となっている平松さんですが、大学入学時は復興ボランティアに特別興味を持っていたわけでもなく、よもや自分が被災地で農家になるとは思ってもみなかったと言います。
現地で遭遇した東日本大震災
東日本大震災が起きた3月11日は、前々日の合格発表を受けて、母親と2人で仙台市にあるキャンパスを訪れました。入学手続きを済ませて、在学生の案内でアパート探しへ。タクシーでの移動中、最初の大きな揺れに遭遇しました。周囲の建物が大きく揺れている様子が車内から見えたものの、車内での感覚はさほど大したことはありませんでした。地震による被害がどの程度のものか分からず、一行はそのまま見学予定だったアパートへ。そのアパートも被災していたため、壁がボロボロと崩れ落ちていました。
キャンパスに戻ってから、予約していたホテルへ移動。館内が停電していたものの、宿泊客は受け入れていて、ロビーでラジオを聞いて被害状況を知ることができました。予定では1泊2日の日程で富山に帰ることになっていましたが、車のガソリン残量に不安があったため、翌日は県庁へ移ってもう1泊。偶然、路上に張り出されていた新聞の号外記事を見て、想像を絶する津波の被害を認識しました。同じ仙台市内の沿岸部では、大津波によって家屋ごと流されている──。「すごいことが起きている」と恐ろしく感じると同時に、「とにかく家に帰りたい」と望むばかりだったと言います。
大学の授業は5月の連休明けに始まりました。通常より1カ月遅れのスタートとはいえ、自分の生活圏内では震災の影響はほとんど感じませんでした。そうした中、大学の友達に誘われて、学生が復興支援ボランティアに取り組んでいることを知ります。最初は興味のあるサークルに顔を出していましたが、週末に沿岸部でがれきの片付けや家の掃除を手伝っていると、「沿岸部の被災地には、1人でも、1時間でも、人手が必要とされている」と実情が分かってきました。気づけば他のサークルは差し置いて、週末は沿岸部でのボランティア活動に通うのが当たり前になっていました。
平松さんが所属していた「ReRoots(リルーツ)」というボランティア団体では、「復旧から復興へ、そして地域おこしへ」を活動のコンセプトに掲げていました。地域では震災によって荒浜小を含む2つの小学校が閉校。震災以前のにぎわいを取り戻すには、外から人を呼び込む取り組みが求められていました。
荒浜地区がある沿岸部は、田畑が広がる農業地帯です。津波浸水地域の農家は住宅も農地も被災し、生活再建の見通しが立たない状況でした。そこで、学生が農家に教わりながら野菜をつくる「ReRootsファーム」を遊休農地を活用して開設。野菜づくりを通して農家の視点に立ち、さらには若者の新規就農へとつなげることを目指しました。平松さんは週末や授業のない時間、ReRootsの一員としてこの農場での活動に取り組みました。
被災地で見た「かっこいい農家」の姿
平松さんは農学部生とはいえ、「もともと自分が農家になる可能性は0%でした」と言います。高校時代に思い描いていたのは、白衣を着て研究する科学者の姿。実家はサラリーマン家庭で、それまで身近に専業農家はいませんでした。そのためか、畑で作物に日々向き合い、収穫物の対価で生計を立てる農家を、職業として意識していませんでした。
よりリアルな農家の姿に触れたのは、ボランティア活動の延長で、荒浜地区の農業法人の立ち上げに関わった時でした。沿岸部で次々と農家が離農していく中、自治体や農協、大学も支援に加わって、農家の再組織化を試みました。平松さんは学生ながら議事録のまとめや農家の意識調査を担当。そこで、自らも被災者でありながら、「震災なんかで途絶えさせちゃだめだ」と土地を守ろうとする「かっこいい農家の姿」を目の当たりにしました。
大学では「農業経済学」を専攻し、産業としての農業というマクロな視点で学んでいました。講義の中では、教員が学問的な視点に立って、「沿岸部の被災地は日本の農村の10年先の姿を示している。被災地をむしろ先進地と見るべきだ」と分析していました。ただ現実には、住宅も建てられない場所で子が親の後を継ぐことは考えづらいです。大学で学びを深める一方、被災地で実際の農家と接する中で、「自分が農家になる」という選択肢が浮かび上がってきました。
行動派の平松さんは、その後住み込みで働く「農業体験」に全国各地で参加。それでも非農家出身の20代女性が就農するケースは前例が少なく、「やれるんだろうか」「無理かもしれない」と、一歩を踏み出せずにいました。気持ちが揺れ動いていた時、30~40代の若手農家の一行が荒浜地区を視察に訪れました。夜の懇親会の場で、石川県の女性農家に「将来はどうするつもりなの」と聞かれ、素直な気持ちを打ち明けたところ、「やりなさいよ」と力強いエールが返ってきました。そのストレートな言葉にどこか気持ちが吹っ切れ、「そうだ、やれるだけやってみて、できなければ諦めればいい」と就農に踏み切る覚悟が決まりました。
農家として生き、被災地の今を伝える
宮城県内での2年間の研修を経て、平松さんは2017年4月、農家になりました。現在は1.5ヘクタールの畑を借り、露地野菜を中心に、地域に合った旬の野菜を栽培しています。主な販売先は仙台市内の直売所やスーパー、八百屋など。JA出荷もしています。
野菜づくりをものづくりになぞらえ、まずは良質な作物を責任を持って生産できる農家になろうと、畑で日々経験を積んでいる平松さん。SNSを通じた情報発信にも意識的に取り組んでいて、就農希望者に自身の経験を伝えたり、さまざまな人が畑に足を運ぶ機会を設けたりと、人と人をつなぐ活動を大切にしています。
その一環として、今年新たに始めたのが、「荒浜マリーゴールド」という企画。土壌改良のための緑肥となるマリーゴールドを荒浜地区の畑で育て、見頃となる夏から秋にかけて一般開放しました。畑のマリーゴールドはその後、畑にすき込んで、来年の土づくりに生かします。子どもや大人に農業を身近に感じてもらおうと、苗は地元の小学校や児童館で配布し、地域にプランターも設置しました。Twitterでは「#荒浜マリーゴールド」のハッシュタグでPRしました。
【農園オープン日 10月10日!】12時〜15時
今月の農園オープン日は、マリーゴールドが最終日となるかもです。野菜、スイートポテト、また、焼き芋も販売予定です🍠✨🌱#荒浜マリーゴールド の花摘み取りができ、写真のような、草木染めの材料にもなります🌼 pic.twitter.com/TaD2WCYsto
— 平松農園|仙台 (@nouenhiramatu) October 4, 2021
SNSを始めたのは就農から3年目。ようやくわずかばかり作業に余裕が生まれてきた頃です。「Twitterは毎日何かしらつぶやくようにしていますが、情報を流しっぱなしでろくに返信もできず……フォロワーさんには申し訳ない気持ちでいます」と平松さん。一方で見ず知らずのフォロワーの中にはきっと震災ボランティアの経験者もいるだろうと想像しているそう。「震災後、全国から本当に多くの人たちがこの荒浜にボランティアに来てくれました。今は遠く離れていても、『ああ、あの時、がれきを拾った畑がこうなっているのか』と伝わればいいなと思います」
平松さんは、SNSの利用によって「被災地の現状や就農に関する情報をリアルに伝えることができ、これまで以上にコミュニケーションが取れている」と感じています。ただ防災に関して言えば、「東日本大震災ばかりが特別でなく、どこでもあり得る問題だと思っている」とのこと。今後は「日常の中から避難の大切さや危険への対処などについて伝えていけたら」と考えているそうです。