ボクが米農家の10代目を継ぐまで
どうも毎度さん。石川県の変な米農家、竹本彰吾(たけもと・しょうご)と言います。青いTシャツがトレードマーク。
江戸時代から続く米農家に姉2人の末っ子長男として生まれ、後継者として2008年に大学卒業と同時に就農しました。有限会社たけもと農場は50ヘクタールの経営体で、コメ、大麦、大豆といった土地利用作物を展開している農業法人です。父の代で1993年に法人化しました。
代々続く米農家の中で、ボクは高校も普通科を選択し、バスケットボールに夢中の日々(スラムダンク世代)。夏のインターハイ県予選での敗退を機に引退し、「進路を考えねば……」という時期に家でくつろいでいると、父に手招きされ、ついていった先は仏間。
テーブルを挟んで父と2人きりというシチュエーション。
「なんだなんだ……」とソワソワしていると、ガサゴソとカバンをまさぐる父。
出てきたのは、帯付きの札束でした!
「へっへっへ〜」と父。「農家は儲からないと言われがちで、生活も裕福じゃない実感はあるやろうけど、もらっているモンはもらっているぞ」と見せつけてくれました。(一枚も与えられませんでしたが……)
期待や注目に応えることが仕事
その後、父のプレゼンが始まりました。「農家は田んぼで農作業することが仕事だと思うやろ? そうじゃないげん。多くのお客さん、田んぼを貸してくれている地権者さん、JAや、集落の人たち、農家仲間。たくさんの人が、たけもと農場と関わりを持っている。そして、少しずつ期待や注目を寄せてくれている。その期待や注目に応えることが仕事であり、そのために田んぼ作業をしているんや」
分かったような分かってないようなボク。父は続いて「将来、どんな仕事をしようかと思うときは、お給料がいくらだとか、休日が何日あるかとか、それも大事やけども、どれだけの人に期待や注目をされて、自分がどう応えることができるか、それをイメージして、どんな仕事に就くかを考えたらよいよ。父としてのアドバイス。そして、たけもと農場にもそれだけの期待や注目が集まっていることを、頭の片隅に置いてもらえるか?」
「後を継いでほしいってことか!」と察するボク。自身も、いつかは後を継ぐんだろうな〜というぼんやりとした考えと、サラリーマンよりも経営者の方が向いていそうだという感覚があり、農業もそんなに悪くない(今にして思うと随分上から目線)印象を持っていたので、その場で「たけもと農場に入りたい」旨を伝えました。
大学在学中に作った事業承継の計画
農家を継ぐことを決めたボクでしたが、大学は農学部へは進まず、まちづくりなどを学ぶ鳥取大学教育地域科学部へ進みました。農業は地域と切り離せない関係なので、地域のキーマンとなるべくこの専攻をば……なんて志よりも、県外の国公立大学へ進むことが第一義でした。「広い世界を見る」、「生活を自立させる」という趣旨ですね。在学中に行った就農への準備としては、父とともに作成した「事業承継・OJT10年計画」が挙げられます。
農業高校などで技能や知識を身につけないままの就農だったので、OJT(実作業をしながら技術・技能習得すること)に計画的に取り組もうという趣旨で作り始めたものです。農研機構の先生方からの指導を受け、事業承継についても併せて進めようと計画へ盛り込むことに。
先生方からは「まず初めに、いつ代わるか決めましょう」と言われ、当時50歳を超えたあたりの父は驚いたと聞きました。息子は戻ってくると言ったけど、まだまだ先のことと思っていたからです。ですが、あらかじめバトンを託す期限を決めることができたことは、ボクら親子ともに大きな前進でした。ここで触れた事業承継に関する計画の作成のイロハについて、次回の記事で深掘りしていきたいと思っています。
事業承継は、農業界に限らず大きな問題であり、トラブルもよく起こるセンシティブな話題だけに、成功事例も、また失敗事例についてもあまり共有されず、知れ渡るのはゴシップ要素だけだったりします。
ダイエットや家の片付けと同じく、ずっと気にはなっているけど腰が重くなる事象。「明日からはきっとやる」精神で毎日ズルズルと過ごしてしまうこの課題について、青いTシャツをダシに、小さく一歩を踏み出すきっかけになる連載が書ければと思っています。ひもの大きな絡まりは、一気には解けません。小さく少しずつ、ほどいていきましょう。
次回の記事では、事業承継計画作成のイロハや竹本家の場合の良かった点、改善が必要な点について詳しく見て行きたいと思います。