家業を超えた茶へのこだわり
徳島県三好市の山間部、山城町にある茶農家「曲風園(きょくふうえん)」を訪れると、3代目の曲大輝(まがり・ひろき)さんが温かいお茶を出してくれた。毎日のようにペットボトルのお茶を飲むようになったせいか、急須でいれたお茶はちょっと特別で、大事にもてなされているような気分になる。
「日本全国では深蒸し茶が多いんですが、うちは浅蒸し。四国の山間地ではそういうところが多いと思います」と言いながら、曲さんが慣れた手つきで出してくれた曲風園の「大歩危茶」は、だしのようなうまみがあり、かつ香りはスッキリとして、とてもおいしかった。
茶農家だからこんなにお茶をいれるのが上手なのかと思いきや、曲さんは「茶審査技術七段」という段位を取得していた。これはワインのソムリエのように、茶の産地や品種、味などの目利きをする技術を認定するもの。このほかにも茶の専門的な知識や技能などがあることを認定する「日本茶インストラクター」という資格も持っている。
これらの段位や資格は茶の栽培の技術に関するものではない。それでもあえて取得したのは茶を家業としているからなのかと筆者が問うと、「最近では、家業を超えつつありますね」と曲さんはちょっとはにかんで笑った。
祖父の挑戦、曲風園が製茶工場を建てたわけ
曲さんの先祖がこの地にやって来たのは江戸時代だ。曲さんの父の清春(きよはる)さんによると、「はっきりしたことはわからんけど、200年ぐらい前だと思う」とのこと。
傾斜の厳しいこの地域で育てられる作物は限られる。古くから人々は「山茶」と呼ばれる在来品種の茶を育てたり、山の木を切ったりして、それを現金に換えて暮らしていた。曲家では、100年ほど前に曲さんの高祖父が山に自生していたゼンマイの株を集めてきて斜面に植え、栽培を始めた。これは今でも曲風園の栽培品目の一つになっている。
この地に「やぶきた」という緑茶の品種が導入され、山城町は茶の産地に成長していった。そんな中、曲さんの祖父の典仁(すけひと)さんは屋号を「曲風園」とし、1980年に自ら製茶工場を建設。製茶工場では、自社の茶葉だけでなく周囲の農家が栽培した茶葉の製茶を請け負い、加工賃収入を得るようになった。「その当時はたくさんの人が茶を作っていたので、商売として成り立つという確信があったんでしょうね。会ったことはないんですけど」(曲さん)。典仁さんは工場を建ててしばらくして亡くなり、曲さんの父の清春さんが若くして後を継ぐことになったので、曲さんは祖父の顔を写真でしか知らないのだ。
曲風園からそう遠くない場所にも製茶工場はある。茶業組合が運営していて、曲風園の製茶工場ができる前は、皆そこに持ち込んで製茶してもらっていた。しかし、そこでは持ち込まれた茶葉をまとめて製茶するため、戻ってくる茶が自分の畑のものとは限らない。一方、曲風園では1軒分ずつ製茶をする。自家製のお茶を飲むことを楽しみにしている地域の人にとっては、ありがたいサービスだ。
今では地域の高齢化が進み、自家用に茶葉を少量しか摘まない人も増えた。それでも、「機械の容量が60キロなので、あんまり少ないと難しいですが、20キロとか30キロならお受けしてます」と曲さんは言う。最近では、持ち込まれる茶葉の1軒ごとの量が減っているそうだ。
挑戦する3代目、修行の中で得たつながり
曲さんは就農前、香川県の自動車関連の会社で働いていた。しかし、茶の繁忙期には毎週のように車で2時間かけて実家に帰り、作業を手伝っていたという。「茶のシーズンの大変さは小さいころから知っていたので、手伝うのは当然。少しでも力になりたいと思ってました」という孝行息子だ。そして23歳で会社を辞め、曲風園を継ぐことにした。
茶の栽培を勉強し始めたのは、実家に戻ってから。「それまでは断片的にしか作業を手伝っていなかったので、どんなお茶がいいお茶なのかもわかっていなかった」という。そのため、曲さんは茶に関するさまざまな資格を取り、茶そのものの勉強もしていった。また、勉強することの意味はほかにもあった。
「茶審査技術の大会に出るには、全国茶業連合青年団という、茶業に関係する45歳以下の人が集まる団体に所属しないといけないんです。そこで同年代の若い茶農家と知り合って横のつながりができたのが良かった」。近くに同年代の茶農家がおらず、情報交換ができる場もない中、県外の同業者と出会えたことは曲さんにとって貴重な成長の機会になったのだ。
そんな中、実家に戻って5年ほどたち、ただ従来通りの茶を作るだけでなく、何か新しいことをしたいと思うようになったという。「曲風園」という名をブランド化することも視野に入れて、デザイナーに頼んでロゴを作ったのもその一環だ。
曲さんの代で新たに作り始めたのは「和紅茶」。海外から輸入される紅茶は、紅茶専用の茶の品種を使っているが、曲風園では緑茶用品種のやぶきたの二番茶を使うそうだ。それまで刈り捨てていた茶葉を活用したいという気持ちがあったという。紅茶の製法は緑茶と違うため、緑茶の製造ラインは部分的にしか使えないが、緑茶のような大掛かりな機械が不要で、紅茶用のラインを作る必要がなかったというのも、製造を始めた理由だ。
この和紅茶に地元徳島県のスダチや隣の高知県のユズを加えたフレーバーティーも開発。オシャレなパッケージデザインも相まって、自社のECショップや地元の土産物店などでの売れ行きも好調だ。「ここは観光地が近いから、観光客に買ってもらえるものを作っていかないと」と、曲さんは出口を見据えて商品開発を行っている。一方で「大きいところと契約していないので、できなかったらできなかったで、どうにかなる」と、納得できるモノづくりに突き進んでいる。
今、さらに挑戦しようとしているのはウーロン茶の製造だ。台湾から機械を輸入し、試作を始めようとしている。
このような新しい試みについて、先代との確執が生じてぎくしゃくするという話をよく聞くが、曲風園ではどうだったのだろうか。先代の清春さんに率直な気持ちを聞いたところ、「新しいことをやらなきゃ生き残っていけないから」と答えた。清春さん自身は30歳で2代目となり、先代が残した借金を返すのに一生懸命だったという。「自分の時は家業を継ぐのが当たり前だったけど、今はそうじゃない。好きじゃなきゃ続けられないからね」と、茶への情熱で突き進む息子を温かく見守っている。
地域の茶を残すために
今、曲風園の茶畑の広さは全部で1.5へクタール、10カ所に点在している。もともと所有していた茶畑に加えて、地域の元農家から預かった畑もあるからだ。どの畑も傾斜がきついため、高齢になった農家にとって作業は大変だ。地域には曲さんのほかに若い茶農家はなく、農地を引き受けてほしいという依頼は後を絶たないが、曲さんは「今は労働力が足りず、引き受けられない」と言う。今は昔と比べて茶の値段も下がっていて、山間部の茶農家にとっては存続も難しい状況なのだ。そんな中、曲さんはさまざまな挑戦の甲斐あって、安定した売り上げをあげている。今の売り上げの内訳は、加工賃収入が3割、土産物店などへの卸が2割、ECサイトなどを含む小売りが5割だそう。曲風園のお茶の固定ファンもついてきている。
製茶工場の庭では、まだ小さな曲さんの長男が遊んでいた。曲風園を継いでほしいかと聞くと、「継いでくれるのなら……。自分がモデルとなってしっかりやっていけば、『面白そう』とか『継ぎたい』とか思ってくれるかも」と答えた。それは、自分自身が父の姿を見て後を継ぐことを決めたからなのだろう。一人の茶農家として茶業にまい進する曲さんは、父親としてもカッコイイ人になっていきそうな気がした。