さまざまな人が得意分野を発揮できる農場
生川さんは1985年生まれ。東大の修士で土木工学を専攻し、大手ゼネコンに就職。工事現場の監督や洋上風力発電に関する国の事業などを担当した後、会社を辞めて農業大学校で栽培技術を学び、2024年5月に就農した。
農家になることを決めたのは、息子に障害があるのがわかったことがきっかけだ。知的障害と自閉症だった。同じ立場にある多くの人と同様、生川さんも当初は衝撃を受け、戸惑ったという。
福祉関連の施設に行き、障害のある子どもたちと接したことで、違う角度から見るようになった。苦手なことがある一方で、熱中してできることや得意なことがあり、それを黙々とこなす力があることに気づいたのだ。

生川寛之さんが育てたニンジン
生川さんの息子は、とりわけ絵を描くことが好きだった。本屋や図書館で見たキャラクターのデザインを記憶して、家に帰ると驚くほど正確に再現する。あえて覚えようとしたのではなく、ごく自然にそれができる。
何かに熱中し、特定の分野で優れた能力を発揮する。そうした力を生かすため、自分に何ができるかを考えるようになった。障害者が働く事業所などを訪ねてみて、その可能性を感じたのが農業だった。
種まきや水やり、収穫など幅広い作業があることに特に魅力を感じた。1つの作業を淡々と続けることを求められる仕事と違い、障害があるかどうかに関係なく、得意なことを見つけやすい仕事だと考えた。

生川寛之さん
「自由出荷」のスーパーと配達の拠点となったカフェ
それでは本題である営農の話に移ろう。現在の面積は50アール弱。ブロッコリーやニンジン、トマトといった一般的な野菜のほか、ケールやカーボロネロ、カリフローレ、ロマネスコなどの野菜も育てている。
販売は、自由に出荷することができる直売所とマルシェなどからスタートした。その際工夫したのは、買ってくれた人とつながれるようインスタグラムのQRコードのシールを野菜の袋に貼っておいたことだ。
これが功を奏し、野菜を気に入ってくれた人が定期購入を決めてくれた。マルシェで知り合った人が飲食店を紹介してくれたこともある。これを続けているうち、販売を安定させることを期待できそうなやり方が見えてきた。

ケール
1つはあるカフェの店主が、店の客に生川さんの野菜の購入を勧めてくれたことだ。これにより、新たな顧客の数はすぐに10人ほどになった。LINEのグループで出せる野菜の種類のリストを伝え、週に1回その店にまとめて配達する仕組みができた。
それまで個人顧客には、1軒1軒回って配達していた。野菜を待っていてくれるのはうれしいが、それで事業を大きくするのは難しいと感じていた。かといって宅配便で送るのも、料金負担が発生するのでハードルが高かった。
販売面でもう1つ大きかったのは、知人の農家の紹介で有力スーパーへの出荷が始まったことだ。担当者が生川さんの畑を見に来て品質を確認した上で、取引が決まった。品目も量も生川さんが決めるという好条件だった。
飲食店とそこを起点にした個人向けの販売は、畑で取れる量を注文が下回ることがある。融通がきくスーパー向けの販売があるので、それを補うことができる。生川さんは「相性のいい2つの販路ができた」と話す。

野菜の売り先の姿が見えてきた
畑はさまざまな体験を提供できる
生川さんの目標である「障害があるかどうかに関係なく、自分の持ち味を生かして働ける農場」に話題を戻そう。それを実現するために必要なのは、売り上げを増やし、経営をもっと安定させることだ。
「このまま気合と根性だけでやるのは難しい」。そう考えた生川さんは、人を雇うことを決めた。インスタで告知して募集し、3人の雇用を決めた。1人当たり週1日3時間ずつ。4月から農場に来てもらうことになる。
応募してくれたのは十数人で、そのうち8人ほどが農場に来て作業を体験した。驚いたのは、その中に「パートでなく、ボランティアでもいいからもっと畑に来て作業してみたい」と言ってくれる人がいたことだ。

畑には体験を提供できるという魅力がある
この言葉は生川さんに強い印象を与えた。「畑には野菜を作って売るほかに、作業を体験し、作物が育っていく過程を肌で感じることができるという価値があるのではないか」。畑を違った目で見るようになった。
作業の仕方はパートとはっきり分ける。「いつ来てほしい」とお願いするのではなく、作業の内容を提示して、興味を持った人に自由に来てもらう。LINEでグループを作ったところ、ただちに25人が登録してくれた。
こうして生川さんは栽培と販売の努力を経て、組織での農場運営へと移行することになった。これからはマネジメントの工夫も大切になってくる。就農してからまだ1年足らず。濃密な時間の経過といえるだろう。
大学院時代から一貫するもの
最後に生川さんの就農の経緯をもう一度振り返ってみよう。