「40代でも遅くない」 大規模生産法人を卒業した農家の奮闘記

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「40代でも遅くない」 大規模生産法人を卒業した農家の奮闘記

連載企画:農業経営のヒント

「40代でも遅くない」 大規模生産法人を卒業した農家の奮闘記
最終更新日:2019年08月08日

京都府亀岡市でネギを生産する田中武史(たなか・たけし)さんは、45歳だった6年前、長年勤めた農業法人から独立して就農した。掲げた目標は家族経営ではなく、会社として事業を大きくすることだ。大勢の従業員を雇い、不慣れな営業にも挑戦して売り上げを増やしてきた。だが順調に伸びてきた経営を、台風や豪雨などの自然災害が次々に襲う。「これがラストチャンス」という覚悟で就農した田中さんの、不屈のチャレンジをお伝えしたい。

豪雨でトラックが流された

2018年9月8日の朝6時過ぎ、田中さんは不安な気持ちを抑えながら、亀岡市の山の中腹にある事務所を目指し、車を走らせていた。前日の夜、集中豪雨が一帯を襲い、道路の上を川のように水が流れていた。途中で通行止めにあい、車を降りて徒歩で坂道を上っていった。
しばらくすると、作業場の外に積んであったプラスチックのカゴが流れてきた。要らない葉や根っこなど、調整作業でネギから外した残さを入れていたカゴだった。ドキッとしたが、まだ深刻な被害にあったと決まったわけではない。「もしかしたら」という胸騒ぎと、「カゴが流れた程度ですんでくれればいい。あとは何とか助かっていてほしい」と祈る気持ちが交差した。

事務所の前の道路を濁流が覆っていた(京都府亀岡市)

事務所に近づくと、目に飛び込んできたのは横転した自社の2トントラックだ。駐車場から道路へと押し流されてきたのだった。いまや不安は頂点に達していた。事務所に駆けつけると、数台の車が土砂に埋まっていた。ネギをカットする加工場に細かい土が流れ込み、更衣室の扉を突き破っていた。
独立し会社を立ち上げた田中さんにとって、事務所と作業場は、事業の成長の拠点となる「城」とも言うべき場所だった。「そのときどう思いましたか」という筆者のベタな質問に対し、田中さんは「うわーって思った」という言葉をくり返した。このシンプルな表現が、衝撃の大きさを物語る。

集中豪雨で被害にあった社用車(京都府亀岡市)

田中さんはこのピンチをどうやって乗り越えたのか。そのことを述べる前に、いったん時計の針を独立のころに戻し、これまでの歩みをふり返っておこう。

独立の喜び「畑がお金に見えた」

「あいつには、嫌みばかり言ってる」
田中さんが働いていた農業法人、こと京都(京都市)の社長の山田敏之(やまだ・としゆき)さんは、田中さんが独立した直後にうれしそうにこう語った。山田さんは現在、日本農業法人協会の会長を務めており、ビジネスとしての農業の発展をけん引する存在。その山田さんが創業したばかりのころから十数年にわたり、田中さんは生産部門の責任者として、こと京都の成長を現場から支えてきた。
早めに誤解を解いておくと、「嫌み」という言葉はもちろん冗談。その真意を聞くと、山田さんは「あいつ、やめてから断然いいネギつくるようになった。腹立つなあ」とこれも笑いながら、田中さんの努力を称賛した。

田中さんが長年働いた、こと京都を率いる山田敏之さん。日本農業法人協会の会長を務めている

田中さんはもともと自分で農業をやりたいと思い、こと京都で働き始めた。だが、山田さんと苦楽をともにしながら仕事をするうち、農業で利益を出すことの難しさを知り、独立の時期を逸していた。こと京都の急成長という事情も重なり、気がつくとすでに40代半ば。田中さんは「いまがラストチャンス」と覚悟を決め、リスクを承知で経営者への道を歩み始めた。
筆者は田中さんと独立前から接してきたが、印象は一変した。「目の前の畑がお金にみえるようになりました」。独立直後の取材の忘れられない一言だ。夏の暑い日に雑草を抜くときや、水をまくとき、つい妥協したくなる自分に勝てるようになったのだ。「やらな、しゃあない」。前はやや線の細い印象のあった田中さんが、真っ黒に日焼けし、見違えるほど精悍(せいかん)になっていた。

独立して間もないころ、田中さんは自らの努力が会社の成長につながることを確かめていった

最初は古巣のこと京都にネギを売っていた。こと京都は自らネギを生産するだけでなく、グループの農家から仕入れて販売しているからだ。だが田中さんは独立の翌年に農業法人の西陣屋(京都府亀岡市)を立ち上げると、飲食店などの販路を開拓し、直接売る量を増やし始めた。
こと京都にいたときは、営業をやったことはなかった。だが意を決した田中さんはラーメン店の雑誌を手に地方を訪ね、アポイントなしで飛び込み営業にチャレンジした。「京都から来ました。もしよければサンプルを送らせていただきます」。約40軒を回り、2軒から契約をとりつけることに成功した。
飛び込み営業で売り先を見つけていったのは、こと京都の山田さんが創業期にやったことだ。ただし、山田さんが明るくテンポのいい語り口で場を盛り上げるのにたけているのに対し、田中さんはどちらかというと物静か。流ちょうにセールストークが飛び出すようなタイプには見えない。当時、そのことを田中さんに聞いてみると、次のような言葉が返ってきた。
「人前でわあっとしゃべれる山田社長と違って、初対面だと緊張しますよ。でも向いているとかいないとか、そんなの関係ない。足を踏み込んだ以上、前に進んでいくしかないんです」
2016年に取材したときの田中さんのセリフだ。今回の取材で、当時の覚悟が実を結んでいたことがわかった。飲食店やスーパーなど売り先は、すでに300軒に迫るまでになった。こと京都への出荷はほとんどない。文字通り、ひとり立ちしたのだ。当初2300万円だった売り上げも、2億円近くまで増えた。社員やパートを合わせると、従業員は40人弱。個人経営のレベルではない。
「やればできる」という言葉を地で行く努力で経営を拡大してきた田中さんだが、この間に農業ならではのハードルが待っていた。自然災害だ。

2度の困難を乗り越え、経営者として次のステージへ

最初に経営を揺さぶられたのは、2017年10月。大型の台風が直撃し、およそ1カ月半もの間、ほとんどネギを出荷することができなくなった。7~9月ごろの台風なら、水につかって出荷できなくなったネギを株元で切ると、再び葉っぱが生えてきて挽回することができる。だが被害が10月だったため、気温が低すぎてネギがうまく育たず、出荷することができなくなったのだ。
小規模な個人農家なら、「できませんでした」ですますことができるかもしれない。だが、田中さんは大勢の従業員を抱える企業経営で、売り上げを安定させるために販売先と出荷契約を結んでいる。もし1カ月半の間、事前の約束を守らないでいれば、他の業者に販売先を取られる恐れがある。そうなれば、翌年挽回するのは難しい。
そこで田中さんは、ほかからネギを買いつけて、契約を守ることにした。天候不順でネギが不足している時期でもあり、当然、通常より高値。この年、買いつけたネギの金額は6000万円に上り、収益を圧迫した。

集中豪雨の被害から復旧したカットネギの加工場

田中さんは「心が折れそうになりました」と当時の心境をふり返る。窮地を救ってくれたのは金融機関だ。運転資金を融通してもらい、ネギの買い付け資金や従業員の給与に充てたのだ。契約栽培が、金融機関の背中を押してくれた。売り先はあるので、ネギさえあれば売り上げが立つからだ。契約栽培にすることが、いかに経営を下支えするかがわかる好例と言えるだろう。
次がトラックを押し流した2018年9月の集中豪雨だ。このとき手をさしのべてくれたのが、古巣のこと京都だ。畑は大丈夫だったので、ネギをそのまま出荷することはできる。だが加工場をやられたので、一時的にカットネギを出荷することができなくなった。そこで、こと京都が割安な値段でカットネギを提供し、田中さんが経営する西陣屋の出荷が滞るのを防いでくれたのだ。
幸いなことに、機械は壊れていなかったため、10日後にはほぼ元通りに出荷できるようになった。このとき田中さんは重要なことを知った。被害の程度にもよるが、加工を伴う6次化に進出した農家にとって、加工すべきネギが足りなくなることのほうが、経営のダメージが大きい。加工を専門とする業者と違い、ネギを機動的に調達するルートを持っていないからだ。農業法人の利益構造にとって、もっとも大事なのはやはり栽培なのだ。
ここで、こと京都と西陣屋の関係について触れておこう。規模が違うとはいえ、西陣屋はネギを生産し、加工して販売しており、形式的にはこと京都のライバルだ。ネギの出荷先としてこと京都の比率を下げていった経緯もある。
この点について、こと京都の山田さんは次のように説明した。
「ネギをうちに売るよりも、彼が自分で加工して売ったほうが利益率がいい。うちで育った人間が加工を始めるなら、もう卒業かなって思った」
肝心なのは、山田さんが独立した田中さんを囲い込もうとしなかった点だ。しかも田中さんが困難に直面すると、カットネギを提供して応援した。
「経営には段階がある。まずはこと京都に世話になり、次に自分で加工や販売を始める。すると社員が増え、経費も増える。それでも経営を維持できるようになったら、事業がもっと拡大し、またうちに出してくれるようになる」
これを、打算の言葉と受け止めるべきではないだろう。山田さんは取材で「彼の経営が安定することが大事」とくり返した。ゆるやかなグループとでも言うべき形で、全体のシェアを長期的に拡大する。足元の利益だけを追っていては、それは実現できない。だから困ったときは、助け合うこともある。

最近は栽培ではなく、営業や管理が仕事の中心になった

山田さんは「自分もそうだったが、経営者にとって最後に大事なのはマインド。この経営を絶対続けるっていう気持ちが能力を高めてくれる。今回の災害で、彼はそういう世界に入ったと思う」と指摘する。これに呼応するように、田中さんは「何とか皆さんの力でやってこられた。ここから先は後には引けない。前に進むしかない」とかみしめるように語った。
経営者として、さらなる前進を誓う田中さんの言葉に勇気を与えられる気がした。

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