「ヨーカ堂は一生懸命やってるよ」
イトーヨーカ堂が農業に参入したのは、店舗で売れ残った野菜などの食品残さを有効利用するのが目的だ。専門の業者に委託して堆肥(たいひ)に加工し、農場で活用する。農場は各地の生産者などと共同で開設しており、すでに全国12カ所にある。セブンファーム富里はその第1号だ。
設立は2008年。イトーヨーカ堂と富里市農業協同組合、地元のベテラン農家の津田博明(つだ・ひろあき)さんが共同で出資して立ち上げた。現在の栽培面積は5ヘクタール強。ニンジンやダイコン、キャベツ、トウモロコシなどさまざまな野菜を栽培し、イトーヨーカ堂に出荷している。栽培を担当しているのは、セブンファーム富里の社長を務める津田さんだ。
津田さんに最初に取材したのは、設立の翌年の2009年だ。イトーヨーカ堂でセブンファームを担当している久留原昌彦(くるはら・まさひこ)さんが同席している取材で、津田さんが次のように語ったのが強く印象に残っている。
「農家にとって取引が見えるのは市場まで。企業はもっと遠くのほうにいて、見えない。まるで化け物みたいに感じることもある」

セブンファーム富里の看板
それまで直接接することのなかった大手企業と組むことへの戸惑いを表現した言葉だ。文字だけ読むとキツイ言葉のように感じるかもしれないが、津田さんはつねに笑みを絶やさない人で、その場の雰囲気がとげとげしくなったわけでは決してない。その後で、津田さんは「でもヨーカ堂は意外とよかったな。みんな一生懸命だ」と続け、久留原さんらをほっとさせた。そのとき筆者が感じたのは、一国一城のあるじである農家の芯の強さだ。誰が相手でも遠慮せず、ストレートに率直に話す。別の取材では、久留原さんを横目に、「ちょっとしゃべりづらいから、どこかへ行ってもらおうか」と話した。もちろん冗談。思ったことを率直に話すという意思表示だ。
この取材からちょうど10年。営農に何か変化は起きているだろうか。そう思って久々に農場を訪ねると、津田さんはイトーヨーカ堂に勧められて認証を取得した農業生産工程管理(GAP)のことを語り始めた。
「最初のうちはなんでこんな面倒くさいことやらなければならないのかと思ったよ。でも2~3年たつと、自分のためになるんだとわかってきた」。歯にきぬ着せずにものを言う「津田節」は健在だった。

JGAPの認証を取得した
GAP認証がもたらした意外な効果
GAPは農薬を適切に使用し、農産物に異物が混入するのを防ぎ、従業員のケガを防止することなどを目的にした農作業の管理規定で、それぞれの目的を達成するために細かいチェック項目が定められている。セブンファーム富里は、日本GAP協会がつくったJGAPの認証を2009年に取得した。
当時の取材でJGAPが話題にならなかったのは、やっている津田さん自身、なぜ作業を細かく点検しなければならないのか、ふに落ちていなかったからだ。例えば、農協に提出する栽培履歴は農薬の商品名を記載すればすむ。これに対しGAPに対応するには農薬の成分を確認し、記録する必要がある。そのころ津田さんはテレビ番組の取材でGAPの認証を取った効果について「農場がきれいになった」と答えている。ほかにあまり手応えがなかったからだろう。
ところが今は「GAPを取る意味がわかってきた」と強調する。GAPの審査員からあるとき「認証を取得することそのものを目的にしないでほしい」と言われたことも影響しているが、もっと大きな理由は別のところにある。従業員を雇い、地域の農業の将来のことを考えるようになったからだ。

セブンファーム富里の主力作物のニンジン
「農薬なんて目分量でやってきたよ」。津田さんはそう話す。いい加減に農薬をまいてきたという意味ではない。長年の経験で、どの程度使えばいいか測らなくてもわかっているのだ。だが、農作業の経験がないスタッフはそうはいかない。そこで、作業で注意すべき点を定めたGAPが役に立った。
安全にも気を配るようになった。以前なら、余った農薬を入れたまま散布機を片付けたりしていた。だが今はその日に必要な量だけ散布機に入れるようにし、もし余れば廃棄するようにした。誰かが誤って倒したり、うっかりボタンを押して農薬を噴射してしまったりしたら、危ないからだ。
GAPを手本に作業のルールを明確にするのと併せ、仕事のやり方も改善していった。「日曜日が晴れで月曜日は大雨なら、日曜日に働いて月曜日は休む。以前はそれが当然だった」(津田さん)。それが家族農業のやり方だった。だが、スタッフから「金曜日と土曜日に頑張って、日曜日は休みにしましょう」と提案を受け、週末にきちんと休みをとれるような仕事のやり方に改めた。

セブンファーム富里のスタッフたち
地域の担い手を育てたい
1990年代以降、さまざまな企業が農業やその関連ビジネスに参入し、うまくいかなくて撤退していった。ある企業は海外から先進的な栽培施設を導入したが、思い通りに栽培できなくて手を引いた。別のある企業は周囲のベテラン農家に栽培技術でとても追いつけないと気づき、農業を諦めた。有力な農業法人と組んで農産物の加工事業に乗り出した企業もあったが、その農業法人としっかりとした信頼関係を築けず、利益を出せずに撤退した。
これに対し、セブンファーム富里はイトーヨーカ堂が資金は出しているものの、栽培そのものは地元の農家の津田さんが担当している。だから農業に対する理解や栽培技術では初めから問題はない。そして津田さんはイトーヨーカ堂とつき合い、従業員を雇用しながら、ルールにのっとった営農のあり方を身につけていった。家族経営から企業的な経営への脱皮と言っていい。
スタッフの一人の女性は、パートから正社員になった。津田さんは彼女の仕事ぶりの変化についてうれしそうに語る。「パートだったときは、おれがいちいち指示を出していた。ところが社員になったら、彼女が自分で何をやるべきか考えて、仕事をするようになったんだ」

津田博明さん(左)と久留原昌彦さん
例えば、以前なら「ダイコンを収穫してくれ」と頼むと、それが終わったら畑から引き上げてきた。だが今は、収穫が終わった後、使い終わったマルチを片付けるなど、指示されなくても自分で仕事を見つけ出すようになった。津田さんは「本当によくやってくれてる。びっくりするよ」と話す。
津田さんが思い描くのは、自分の農場で働いたスタッフがいずれ独立し、地域の農業の担い手になってくれることだ。農業が盛んな富里市も農家の高齢化に伴い、離農が進んでいる。津田さんは今68歳。「きちんとルールを決めて一緒に農業をやる。その中で、農業の何が面白いのかを若い人たちに伝えていきたい」。この希望こそ、セブンファーム富里の最大の成果だろう。